−お知らせ−
このお話は史実に基づくものではなく、単なる妄想です。
一部に実在した人物・団体・物体・出来事・地名・思想・制度なども登場していますが、その行動や性格設定・実態・本質及び情景etcは、全て「でっちあげ」です。
又、特定の信条を美化する目的はなく、あくまで物語として書いたお気楽な伝記です。
それを承知の上、多少のことは目をつぶり、遊び心で読んでみようという方のみ、下へお進み下さい。




-修道女アンヌ-



1767年、ボルトー地方、コート・ド・カスティヨンのモンプザという村に、アンヌという女の子が生まれた。


モンプザはなだらかな丘に緑が生い茂り、石造りの建物が点在するのどかな村である。
ボルドーから少し離れた村だが、ワインの産地としても名前が通っている。


高い空に大陸の乾いた風が吹き、豊かに流れる川が人々の生活を守り、アンヌの家もワイン作りに携わっていたことから、彼女は幼い頃から不自由のない生活を送っていた。


そんな彼女が不幸に見舞われたのは生まれて9ヶ月目の事で、母親がちょっと目を離した隙にベッドから転落し、腰を痛めたことにより歩くことが出来なくなってしまった。

以後、アンヌはベッドでの生活を余儀なくされ、他の子供たちが走り回って遊ぶ姿を窓から眺めるだけの毎日を送っていた。


アンヌの唯一の楽しみは、聖母に信仰の厚い母親が読んで聞かせる聖書の話だけであった。




「マリア様に一生懸命お祈りをすれば、あなたはいつか絶対に歩けるようになりますよ」
母親は幼いアンヌにそう言い聞かせて励ました。

事実、信仰心厚い彼女は本気でそう思っており、いつか我が子の足はマリア様の愛で治ると信じ切っている。

そして毎日、娘を近くの教会へ連れて行き、ピエタ像の前で祈りを捧げた。


もちろん、その熱い気持ちがアンヌに伝わらないはずがない。
彼女は母親の影響を受け、信じれば必ず願いは叶うことと、聖母様への強い信仰心を育んでいった。


アンヌはやがて自分の足が自由に動く事を思い描き、毎日ベッドの中で動かない足に力を入れたり、時には床に落ちながらも自力で動こうと努力もした。

彼女の朝は母と共にマリア様へその日一日の努力を報告することで始まり、昼は感謝と共に祈った。

夜も夜で「マリア様、私は今日も一日、たいそう努力を致しました。明日もがんばります。私はあなたへの信仰によって歩けるようになります」と誓い、彼女の日々はまさに聖母との対話に明け暮れていたのだ。


そしていつかアンヌの想いは、自分の足が動くようになったら一生をマリア様に捧げるという固い決意に変わっていった。




彼女の信念と母親の強い信仰心に励まされ、1774年、ついに奇跡が起きた。


アンヌの足は立ち、何とか自力で歩けるようになったのだ。

だが、彼女は体が弱く、同じ年頃の娘たちに比べても体が小さかった。
17才になったアンヌは修道院へ入るつもりでいたのだが、病弱であることを理由に断られ、身近なことから奉仕活動を始めた。

しかしこのことによって、彼女は自分が修道院に入るのではなく、志を共にする仲間たちを集めて修道院を開く決意を固めたのである。

やがてフランス革命が勃発し、アンヌたちは活動拠点である教会を追い出されたのだが、そんな失意の中、アンヌは教会のマリア像が動き、彼女を見つめて微笑むという奇蹟を体験する。

これこそがマリア様のご意志と彼女は奮い立ち、国内の教会が活動を停止する中、1796年11月21日、南仏ヴィヴァレ地方チュエイで4人の同志とともに聖母奉献修道会を創立するのである。



病弱と言われたアンヌのどこにそのような行動力が隠されていたのかはわからないが、彼女はその小さな体を精力的に動かし、貧しい人たちの救済のために活動を続けた。

やがては1814年に最初の孤児院を作り、子供たちに教育の場を提供していく。



その大胆な行動力と燃えるような彼女の情熱はやがて人々の心を動かし、多くの賛同者を得ていったのである。





「私の娘はやがて海を渡るでしょう」


彼女は自分の死が近づいたある日、そう言った。



そしてその言葉の通り、アンヌの意志を継いだ修道女たちは海を渡り、活動を世界へと広げていったのである。


彼女が立ち上げた修道会は今も世界中で受け継がれている。




montpezat birth 
Anne Marie Rivier
1768-1838





2005/6/22/


※内容については、物語として書いていますので、一部フィクションの部分があります。
ご了承下さい。





up2005/7/17/



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