−お知らせ−
このお話は史実に基づくものではなく、単なる妄想です。
一部に実在した人物・団体・物体・出来事・地名・思想・制度なども登場していますが、その行動や性格設定・実態・本質及び情景etcは、全て「でっちあげ」です。
それを承知の上、多少のことは目をつぶり、遊び心で読んでみようという方のみ、下へお進み下さい。




-夢の庭-


ベルサイユ宮殿の鏡の間で開かれた舞踏会に現れた美少女は、人々の注目を浴びて誇らしげに背筋を伸ばした。

彼女の名はフォントネ公爵夫人と言い、実は平民の出である。
裕福な家庭に生まれた彼女は没落貴族のフォントネ侯爵と結婚し、貴族の身分を金の力で手に入れたのである。


彼女の素性を知る貴族たちは軽蔑と好奇心が入り交じった目で彼女を見つめていたが、当の本人は夢にまで見たベルサイユ宮殿に上がれただけですっかり舞い上がっていた。


威厳を放つ王妃アントワネットの姿を見てドキドキし、尊敬する「英雄」ラ・ファイエット侯爵に緊張しながら挨拶し、今日の栄誉を堪能しようとしていたのだ。


時々、刺すような視線を投げかけてくる貴婦人たちも見かけたが、きっと私の若さと美しさに嫉妬しているのだわと良い方へ解釈し、決してひるむ事はなかった。

平民の身分だからと言うだけで不当に扱われる筋合いはない。貴族だからと言っても生活に困っている人もいる。

その点、私の一族は裕福で実力もあるし、たいていの願い事は実現できるという自信もあった。


才女とうたわれるネッケルの娘ジェルメーヌがサロンの人気者となり、自らの才能を開花させているように、身分だけで人の価値は判断できないという風潮に彼女はすっかり魅了されていたのだ。

自由主義や憲法という考え方に傾倒し、才能さえあればどんな身分でも輝く事ができる世の中が来る事を夢見ている彼女は、今さら貴族に生まれたとしても、それ自体、決して個人の才能が優れている事ではないと考えていた。

だがその一方で貴族の暮らしをしてみたいという矛盾した願望を持っている事も認めている。



けれど、確かにあこがれのベルサイユ宮殿はきらびやかでおごそかで、高貴な人々が集まっている事には感動したが、なぜか時間が止まったようによどんだ空気も同時に彼女は感じ取っていた。

パリではもはや絶対王制など破綻しているなどとうわさされ、世の中はめまぐるしく変わっていく予感すら有る。

だがここでは相変わらず伝統としきたりが支配し、まるでおとぎの国のような、異国にいるような錯覚すら覚えた。


不意にフォントネ公爵夫人はぶるっと身震いした。

おとぎの国は現実のものではない。生きた人間のいる世界ではないからだ。



ああ、だけどこの大切な瞬間にそんな不吉な事は考えまい。
若い彼女の意識は再び鏡の間に戻り、興味深げな瞳であちこちを見回した。

「私はおとぎの国になんか憧れないわ。世の中がいくら移り変わっても現実をしっかり見据えて生き残ってみせるもの」
彼女はうっすらと笑みを浮かべ、自分の行く先を予感した。




**********




フェルゼンがベルサイユに舞い戻ってきてから数ヶ月が経っていた。

首飾り事件が人々の口から忘れ去られ、ただアントワネットへの不信感だけが残っている今、フェルゼンの立場は決して楽なものではなかった。

王妃の色男と名指しされ、またある時はスウェーデンのスパイとさえ言われている。


だが、かつての彼とは違い、もうどのような評判が有ろうとアントワネットのそばから離れる気持ちはなかった。

どう振る舞っても王室の批判の矛先となってしまう王妃を擁護する彼に、悪評が立つことは間違いなく、彼女のために何かを犠牲にする事は仕方ないと割り切っていた。


と、いかにも平民に不人気な彼だが反面、実は貴族や平民にかかわらず年頃の娘を持つ親たちには大変好かれていた。

潔い人柄と、王妃からフランス外国人部隊の連隊長の肩書きをもらっていた彼には将来性もある。

なにより、物静かで誠実そうな顔立ちにはたいていの娘たちが魅了されていた。

彼には毎日どこからともなく見合いの話が舞い込み、断り切れないものも含めて何かと多忙に過ごしていたのだ。



中でも、以前お見合いをしたネッケルの娘ジェルメーヌは20才になっており、再びフェルゼンに縁談が廻ってきた。

だが今回はフェルゼンが相手というわけではなく、誰か良い相手はいないだろうかという打診だったので、彼は同僚のホルスタイン男爵を勧める事にした。

特にホルスタイン男爵はグスタフ三世の信頼も厚く、フェルゼンも安心できる。


そうやって自分の事だけでなく、他人の事にも誠実に応対しているので彼はなかなか多忙で、旧知の友とはゆっくり酒を飲んで話し合う事も出来なかった。



親しい友人であるオスカルも又、フェルゼンが多忙であることに安堵していた。
すでにかなり過去の事になったが、謎の貴婦人として彼と踊った事は記憶に鮮明に残っている。

正体を知られたくないという気持ちからか、オスカルは彼を心のどこかで避けていたのかも知れない。


帰還してすぐに彼はベルサイユ宮殿に伺候しているオスカルを真っ先に探し当て、留守の間に王妃を守り通した事に感謝の気持ちを伝えた。

「大変な事になっていたのにフランスに戻れないのはつらかった。アントワネット様だけではない。もしやオスカル、お前にも危険が及ばないだろうかと心配していたのだ」
フェルゼンは心からそう思っていた。


「心配してもらわなくとも私は大丈夫だぞ、フェルゼン。アントワネット様をお守りするのは当たり前の事だ」


フェルゼンは以前と全く変わらない。それどころかオスカルにまで気を遣ってくれる。

もし以前と違うところがあるとすれば、彼女の事を親友であるとともに、女性であるオスカルを見守ろうとする彼の優しいまなざしである。


「ありがとう、オスカル。感謝している」
フェルゼンの面持ちはおだやかだった。


「礼には及ばぬ。だがフェルゼン、あなたが喜ぶのであれば私は嬉しい」
オスカルは思う。このような時、もし自分が男であれば何のわだかまりもなくフェルゼンと共に喜びを分かち合えただろうかと。

自分には合わぬ恋だと一度はあきらめたはずの彼女だが、それでもやはり彼に心惹かれている自分を自覚せずにはいられなかった。




そして彼の帰還を何より喜んだのはアントワネットその人である。

「あなたはたいそう人気者なのだそうですね、道理で忙しくなさっているはずですこと」
彼女は優雅に扇を揺らし、冗談ぽくフェルゼンをからかっている。


「あ、いえ。私は役者ではありませんし、なぜか皆が私を良い方へ誤解しているらしいのです」
この様な時に実直な彼は、言葉遊びなどせずにありのままを打ち明ける。


宮廷に長く居たはずなのに、相変わらず要領よく立ち回ろうとしない彼が王妃にはかえって信頼できる。


アントワネットも今さらフェルゼンがどこかの女性を妻にするとは思っていない。

彼は誰とも結婚しないと誓ったし、どんなに忙しくとも約束した時間はほとんど守っている。
忠実という名で結ばれた愛情は二人をしっかりと結びつけていた。


今では王妃は首飾り事件以後は市民の反感からパリへ行くことをやめ、平和なベルサイユにとどまっていた。

まるで民衆の存在を無視すれば全てうまく行くと思いこんでいるかのように。


いつかオペラ座で激しくブーイングされた事も原因だが、いくら世の風潮に嫌悪感を感じている彼女でも、民衆やパリの町が王妃をどう評価しているか思い知っていたのだ。

しかし世の中の動きを敏感に察知するには、パリとベルサイユでは距離がありすぎた。


アントワネットはただ単に、この数年、冷夏の影響で作物が不作のために民衆が不満を抱えているだけだと安易に考えていた。

いずれ作物がよく実る年もやってくるだろうし、天候などと言うものは神様のご意志なのだからどうにも仕方がない。

歴史の流れが激変し、今にも堰を切ってあふれそうだとパリで民衆が騒いでいても、ベルサイユからすればパリは遠い。人々の叫び声など小さなささやきにしか感じられなかった。

ベルサイユにいればひたひたと忍び寄る現実を見なくて済むし、時間もゆったりと流れているので、王妃は相変わらず世の中心として君臨し続けることが出来る。


もしかするとパリとベルサイユはいつまでも時間の流れが違うままで、私さえパリに出向かなければ、この先、世の中は何も起きずに平穏かも知れない、とさえ思う。


それに何も楽しい事はパリだけではない。ベルサイユ宮殿内にもたくさんの楽しみがあるののだから。

プチ・トリアノンに建設中の農家や村落も着々と進んでいるし、親しい友人もそばに居る。何より今では心から頼りにしているフェルゼンも戻ってくれている。
もう全ては今のままで充分満足なのではないだろうか。



パリでは未来を目指して飛び立とうとしているのに、それとは全く反対に、アントワネットはベルサイユのはかない夢の世界へ逃げ込んでいたのだ。




**********




近頃、オスカルはしきりにパリに出かけていた。

ここのところ冷夏のせいか、地方からの出稼ぎが増え、パリの人口は増える一方だった。治安も悪くなる一方で、盗賊が増えて貴族の屋敷を荒らしている。

先日にはついにジャルジェ家に縁のある知人宅も被害に遭い、大切な家宝の壺や宝石類をごっそりと盗まれたと言う。

市の警察も動いているが、いま一つ成果はあがらずほとんどが迷宮入りになっていた。


管轄外とはいえ、知人にも被害がでているので、ごく個人的な動きだが、彼女は盗賊を追跡していたのだ。

又、アントワネットのパリでの評判も気になり、不穏な動きが無いかも合わせて調べていた。

こう言う時にパレ・ロワイアルに店を構えている花屋のモーリスが役に立ち、やれ中傷ビラがまかれただの、盗賊が何時何処に出没したかなど念入りに調べてくれる。



そして、このたびロザリーがベルナールと結婚する事が決まり、二人はパリに住む事になったのだが、新居の様子や結婚式を挙げる教会などもついでに見て回っていた。



フェルゼンが帰ってきてからオスカルはあまりアントワネットに謁見していない。

いくらオスカルが誠意を持って王妃に仕えたとしても、アントワネットの心を支える事が出来るのはフェルゼンその人だけであることはわかりきっていた。

今では二人の邪魔をしてはいけないという遠慮もあり、又、王妃付きの仕官という立場はフェルゼンの出現と同時に意味のない肩書きになっている。

オスカルはフェルゼンの包容力を信じればこそ、二人から距離を置き、遠くから見守ろうと決意できたのである。


もちろん、アントワネットがオスカル以上にフェルゼンに対してより心を許していようと、それを彼女が悔しがるものでもない。全ては王妃がよかれと思うことが第一なのだから。

これまでオスカルはアントワネットあってこその自分の立場と心に決め、出来る限り心を込めて仕えてきた。

今もまだその気持ちは抱き続けている。


だが、すでにフェルゼンとアントワネットはオスカルを伴うことなく、ごく自然に二人だけの関係をつくり上げている。

オスカルは今まで築いてきた自身の仕官としての信頼や実績というものも大切だが、これからは王妃のことはフェルゼンに任せ、自分は自分なりに道を切り開こうという気持ちが次第に高まってきていた。


多分、もっと前からそうすべきであろうとオスカルも自分の心の中のどこかで考えていたに違いない。
王妃付きの仕官という立場からの離れていくことは、女が生きていく中で一つの通過点に過ぎない。

ただ、アントワネットのそばにいて仕え続けることが自分の存在意義だという考えが彼女の中に根強くあった。

だがいくら居心地の良い場所だったとしても、自分がしがみついているだけでは気持ちが空回りしてしまうだけだ。



結局、フェルゼンの帰還はオスカルにとって、新たな自分の生き方を探す力を奮い立たせるきっかけにもなっていた。



又、こうやってパリに行くと、今まで見えなかったものも見えるようになってくる。

ロザリーが以前住んでいた古い借家は今では不法に占拠した労働者がひしめき合っていたし、衛生面も良くない。

路地を入ると鼻を衝くようなアンモニア臭が立ちこめ、目が痛くなる。その日の暮らしに困り果てた者は路地に座り込み、やりどころのない怒りを抱えた者は暴力に訴える。

金持ちの屋敷は襲われ、小麦の倉庫に強盗が押し込んでいることももはや珍しくはない。


それとは反対に、未来に対して前向きな者も数多くいて、憲法を制定すべきだとか、議会が必要だというパンフレットが飛び交い、世の中を変える力は貴族ではなく平民側に充ち満ちているという活気すらある。


ベルサイユに居ては決して知り得ないような、新たな希望や厳しい現実がパリには有ったし、地方の都市でも状況は変わらないとも聞く。


「オスカル・フランソワ、今に見ていたまえ。民衆は間もなく立ち上がる。もうそれが出来るだけの下地はできあがっているんだ。誰かが古いしきたりを破ろうとしたその瞬間、堰を切って水があふれ出すように歴史は転換期を迎えるのさ」

間もなく結婚を間近にして浮かれ気分のベルナールだが、下町を歩く彼の表情は笑っておらず真顔になっている。


「しかし見たところ、その日暮らしに疲れ果てている貧しい労働者に蜂起する力強さは見受けられない。貴族や商人たちの妻や娘たちが慈善事業で活動し、このような貧しい人々を助けているというが、それが現実なのではないのか、ベルナール」
オスカルは彼が妙に急進的になりはしないかと牽制する。

危険を顧みずに我が身を投げ出す男のところに大切なロザリーを嫁に出すのは考えものだ。


「不公平と貧しさはとんでもない力を生み出すものだ。今は地面に座り込む男でも明日になれば先導者や英雄になるかも知れない。それは俺にだってわからないことだ」


「ただし、お前はロザリーを幸せにするのが一番の仕事だ。立派な志は良いが、女を泣かす男は究極の身勝手と心得えておけよ、ベルナール」


「わかっているっ」
ベルナールはやっと現実に引き戻され、渋い顔をした。


ところで屋敷を出て行く決意をし、再びパレ・ロワイアルの花屋で働きはじめたロザリーはいきいきとし、店主のモーリスを喜ばせていた。

あれほど贅を尽くしたジャルジェ家のドレスもあっさりと脱ぎ捨て、質素な服のほうがのびのびとできるといわんばかりにはりきっている。

オスカルはロザリーの手があかぎれて血がにじんでいるのを複雑な気持ちで見ていた。


大切にしていた彼女をこれ以上守ってやる事が出来ないこと、そしてそれとは反対に、多少の苦労を覚悟しつつ民衆の中で生きる決意をしたロザリーの中に、民衆の持つたくましさがかいま見えていた。


絶望と希望、不安の中で安定を求める混沌とした空気。
今、何かをしなければという得体の知れない力を秘めた感情がパリには満ちあふれている。


国王が絶対的な権力を握り、貴族が独占して築き上げた社会はもはや時代遅れだということ。

それとは反対にベルサイユ宮殿だけが以前と変わらない時間の中にいること。


そして、次の時代を担うのは貴族ではなく、実力をじわりとつけはじめている平民たちであるということ。

彼らの底力を、オスカルはパリにいる事でいやおうなく肌で感じざるを得なかった。





2006/2/6/




後記:フェルゼンがフランスへ戻ってきたのは遅くとも1785年あたりまでだと思うんですが、首飾り事件の話と一緒になると書いてる私がこんがらがってしまうので、彼の出番が少し遅れました。






up2006/3/12

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