−お知らせ−
このお話は史実に基づくものではなく、単なる妄想です。
一部に実在した人物・団体・物体・出来事・地名・思想・制度なども登場していますが、その行動や性格設定・実態・本質及び情景etcは、全て「でっちあげ」です。
それを承知の上、多少のことは目をつぶり、遊び心で読んでみようという方のみ、下へお進み下さい。




-アマリリス-




8月12日、ベメールから契約書やジャンヌの走り書きなどを見せられたアントワネットは不意に頭痛に襲われていた。

もうこれは立派な詐欺事件だった。


特に、契約書に記された「アントワネット・ド・フランス」というサインを見て、このように品のないサインは見た事がないとわなわな肩を震わせ、王妃の怒りは再びわき上がっていた。


ベメールはきっとローアンにだまされ、自分もまんまと利用された、と彼女は思ったのだ。



しかしこれは悪い夢ではないかと考え、次の日まで誰にも打ち明ける事を思いとどまっていた。
この侮辱を世に広く打ち明ける事すら侮辱に思え、彼女は怒りのあまり口を閉じていたのだ。



だが事実は事実、現実は厳しい。結局怒りは収まらず、このような一大事を独りで抱える事は難しく、もう国王に黙っている事は出来なかった。

宮内大臣のブルトゥイユ男爵も早くルイ十六世陛下に報告し、ローアン枢機卿も呼んで事の次第を明らかにすべきだと後を押した。



8月14日、アントワネットは出来事の全てを夫に知らせ、事件の張本人に間違いないであろうローアン枢機卿を捕らえ、王妃の名を汚した罪はあまりにも深い事であると本人に思い知らせなければならないと訴えた。

夫に打ち明けた安堵感から彼女は涙を流し、言葉を詰まらせながら我が身の不幸を嘆いていた。

ルイ十六世は徹底的にローアンを痛めつける事には賛成しかねていたのだが、激高した妻を静めるために仕方なく同意するしかなかった。



翌8月15日、その日はローアン枢機卿はミサを上げるために法衣をまとい、出番を待っていた。

そのさなか国王から至急、鏡の間に来るように呼ばれ、一体何かあったのかと首をかしげつつも彼は運命の一瞬へと近づいていったのである。


鏡の間には謁見を求める人や、両陛下に挨拶をしようと貴族や王族の人々が大勢集まり、中には風のうわさで何かとんでもない事が起きると内密に聞いていた者もいて、いつもより多くの人がいた。



中央では国王夫妻が大勢の貴族に囲まれ、近衛兵が近くに控えていた。

オスカルも又、この場に来るように命じられていたのでアントワネットのすぐそばにいたのだが、王妃のただならぬまなざしに嫌な予感を感じていた。


アントワネットの視線は目前に現れたローアン枢機卿に注がれ、誰が見ても憎しみの混じった怒りの目である事は見て取れる。

もちろん、同じ場所に居合わせた人々や当の枢機卿にもわからぬはずがない。


「ローアン枢機卿、たいそう高価なダイヤの首飾りを買われたそうだが、いかがなされたか」
ルイ十六世の問いかけにローアンは一瞬にして、今までの甘い出来事が夢幻である事を悟った。

彼は居心地の良い夢から覚め、裸で外に放り出されたかのようにうろたえるしかなかった。

だがこのような緊張が走る場で、冷静に全ての事を語るには物事は複雑すぎた。

何よりすさまじい気迫を放つアントワネットに対し、気の弱い彼がこの場で悠然と口を開く事など出来るはずもない。



「申し訳ございません。私がおろかでした。…だまされたのでございます」
と小さな声で言うのがやっとだった。


「枢機卿、落ち着くがよい。そして事の次第を述べるのだ」
国王は冷静だった。彼が知りたいのは真実であり、事を穏便に済ませることだった。


「はっ。…ジャンヌ・バロアと申す女が王妃様との仲介役になると申しまして、私が保証人になって首飾りを購入する手はずになっておりました」
国王の穏やかな態度に救われたのかローアンは何とかそれだけ言う事が出来た。


しかしそれだけで終わるはずはない。
二人の比較的ゆっくりとしたやり取りにアントワネットはいらだちをこらえる事が出来なかった。



「なんと汚らわしい、この私があなたに一度たりとも声をかけた事がないのは誰もが承知している事です。それなのに保証人になるほど親密な仲だとどうして考えられましょう。私を侮辱した罪は許せません」
王妃は冷たく突き放すような、よく通る高い声で言った。

特に周囲は水を打ったように沈黙しているので彼女の声は鏡の間の隅々まで響き渡っている。


「何の恨みで私の顔に泥を塗るのです。私が声をかけなかった事がそんなに恨めしいのですか」

アントワネットは怒りに声を震わせながら訴えた。


ここ数日、何度涙を流した事だろう。彼女の両目は腫れ上がり、怒りにゆがむ顔にいっそうの悲壮感をにじませていた。



気の毒なのはローアンである。彼もだまされたに過ぎないのに、すっかり悪者の首謀者扱いにされて縮み上がっている。




「ローアン枢機卿を捕らえよ」
ブルトゥイユ男爵はそばに控えていた近衛兵に命じた。それはオスカルだった。


信じられぬ展開に、それが本当に王妃のご意志なのかとオスカルは我が耳を疑った。

しかしローアンその人が自らオスカルに近づき、神妙な態度で頭を垂れている。

国王はどこか瞳の奥に憐れみを浮かべて黙って様子を見つめ、アントワネットは怒りの中に満足げな笑みを浮かべ、一刻も早くこの場から枢機卿を消し去りたいという表情を浮かべていた。



鏡の間を抜け、人々が事の成り行きを見守る中、枢機卿を一時監禁しておく部屋へと誘導するオスカルは、今、大変な場面に立ち会っている事を肌で感じていた。

ローアン枢機卿が嘘を言っているとは思えなかった。いくら王妃に無視され続けていたとしても、彼の真意は他の貴族同様、王妃に振り向いて欲しいというありきたりな出世欲であろうことは容易に推測できた。

たとえ気の弱い枢機卿とは言え、貴族では最高位のプリンスの位を持つ彼の事である。
このような屈辱に耐えかね、反対にどう対抗してくるのかわかったものではない。
増して、大貴族でさえ王妃の感情ひとつで罪人に仕立て上げられるのだとしたら、他の貴族たちがアントワネットをどう思うであろう。


そして真の首謀者と言われているジャンヌが今どこでどうしているのか。
オスカルは真実を突き止めるためにこの事件に立ち会った全ての共犯者を捕らえようと決意していた。


ローアンの姿が見えなくなり、どよめいていた人々がこの一大事をより多くの人に知らせようとそれぞれ立ち去った頃、オスカルは宮殿から馬を飛ばし、ジェローデルを呼んで精鋭部隊を至急揃えるように命じ、厩にいるアンドレに今からの段取りを伝えた。



「私は今からジャンヌを追う。勘が頼りだがイギリスへ逃げ出そうとしているのなら、もうすでに街道を北に向かっているかも知れぬ」


「俺も行こう。…っと、待てよ、ロザリーが心配だと言いたいんだろう」
アンドレは慌てて小屋裏からハシゴを下りてきた。


「そうだ、後の事をお前に任せる。ロザリーの周辺で何か起きる可能性もある。用心して見張ってくれ」


「おう、任せておけ、お前も気をつけてな」
彼は敬礼して走り去った。


ジェローデルが小隊を率いて戻ってきた時、オスカルはローアンの召使いがどさくさにまぎれて慌てて出ていく所を目撃した。

どうせ証拠隠滅に違いないが、問題はローアンではない。

この宮殿の中にもジャンヌの仲間が紛れ込んでいる可能性は高い。ここ数日の動きを彼女が知っていれば、行方をくらます事はわかりきっている。



オスカルは率いる小隊以外に、ジャンヌの屋敷や共犯者たちの住みかを捜索する別働隊を仕立て、それぞれにぬかりなく一味を捕らえるように指示した。

又、別の兵士たちはローアンの屋敷へ家宅捜索に入るので、こちらにも任務は責任を持って遂行するよう命じた。

近衛兵は大貴族の出身が多い。ローアンに対する同情心が兵士たちのあいだでわき上がる事は間違いない。

だが、半端に終わらせる事で、かえってローアンの立場を微妙にしては逆効果になる。


馬に鞭打つかけ声と共に彼女は小隊の先頭に立ち、ジャンヌを追った。




オスカル率いる近衛小隊があわただしく出ていく様を、アンドレは屋敷へ帰る途中に見る事が出来た。
いつもながらさっそうと馬にまたがり駆けていく彼女の姿はりりしく美しい。
貴婦人たちがオスカルに惹かれ、崇拝するのもわかる気がする。
もし男に生まれていたとしても、さぞかし華のある人生になっていただろうと思う。

「女にしとくのがもったいないかもな」
彼はつぶやいた。




**********




事の次第を聞いてロザリーは血の気を失っていた。

泣きながらしきりに「ごめんなさい」を連発し、まるで自分が罪を犯したような狼狽ぶりだった。


「そうじゃなくてロザリーは何にも悪くない、俺が言いたいのはお前も気をつけないと危険だって事だよ。特にこんな時だから気を強く持ってしっかりしろよ。お前は本当は強い女の子だろ」


「ジャンヌ姉さんが私に何をするって言うの」


「わからない。それにジャンヌじゃなくても、その仲間がどんなことをしでかすかわからないってことだよ」
アンドレはこう言う時、ロザリーの心を誰かが支えてくれないものかと思っていた。


「わかったわ。アンドレ、お願いがあるの。…ベルナールに連絡をつけてくれるかしら」
ロザリーは涙を拭いて言った。


いかなる理由があろうとも、ジャンヌが自分に何か手荒なまねをするとは信じられないロザリーだった。
彼女の頭の中ではアマリリスの調べが、ぐるぐると回り続けていたのである。




**********




カレーはジャルジェ家の領地があるアラスから北に100キロほど行ったところにある港町だ。

イギリスへ行くにはここから船でドーヴァー海峡を渡っていく。

オスカルにとってはアラスへ続く街道は行き慣れた道でもある。


ロザリーやベルナールの話からすると、ジャンヌはイギリスへ逃亡する可能性が高かった。

彼女はジェローデル以下、騎馬に長けた精鋭部隊を組み、アラスへの街道をひた走る。


街道馬車をいちいち止めて乗客をあらためる事は思いの外、手間取った。又、通りがかる町も素通りは出来ず、ジャンヌらしき女の手がかりを集めるだけでも時間がかかった。


だが、乗り合いの馬車にまぎれて黒い髪の女が北へ向かったという情報を得て、オスカルたちは彼女を間違いなく追っている事を確信した。




アラスを過ぎたあたりで追いついた2台の馬車は、オスカルの目の前でそれぞれ左右の道に分かれた。

彼女らはカレー方面に向かった左側の方の馬車を止め、中にいた乗客を調べた。
中にはオスカルの思惑通り、ジャンヌが目立たぬ質素な服装でまぎれていた。



「ジャンヌ、もう逃げられんぞ。お前はこの一件の全てを国王陛下の前で話すのだ」
オスカルは馬車の入り口を塞ぎ、彼女に隙を見せないようにした。


「あら、見つかっちゃいましたねぇ。それにしてもあのローアンって男、全くの見込み違いの役立たずだこと」
ジャンヌはおよそ貴婦人にはあるまじき、いまいましいと言わんばかりの表情をした。


「隊長さん、だけどおとなしく捕まる私じゃありませんわ。あなたの大事な妹さんがどんな事になってもよろしいのかしら」
ジャンヌは慌てた様子もなく、座席に深く腰を落ち着けたままうすら笑った。


「あいにくだな、そちらも手はずは取ってある。いい加減な事を言うものではないぞ」
オスカルは淡々と切り返した。

ジャンヌのような人間は行動だけではなく言葉でも人の隙を狙う。まともに相手をするだけ無駄というものだ。


「だがお前一人とは怪しいな」


「いえ、私一人でございますとも」
ジャンヌはうそぶくが、先ほどオスカル率いる小隊が2台の馬車に近づいた時、確かもう一台の馬車はごく自然に右へ曲がる道に進路を変えた。

あの馬車にも誰か共犯者が乗っていたとも考えられる。

もしかするとこの馬車も、あのもう1台の馬車も、まるごとジャンヌの仲間という可能性もある。



「仕方ない。ジェローデル、ここにいる全員を捕らえよ」
オスカルの一声で乗客らは不満な表情を見せた。


「一番近くの町で尋問して、何もなければ放免してやる」
最後は威圧感のある低い声で言ったせいか、皆は逆らう事を止め、沈黙してしまった。


「ジェローデル、お前はさっきの馬車を追ってくれ」
主犯と思われるジャンヌを連行するためにオスカルは部隊を二つに分けてベルサイユに戻ることにし、ジェローデルと残りの兵たちは逃げた共犯者を追うことにした。

ジャンヌの夫や偽王妃を演じた娼婦、そして偽の手紙を書いたレトーはまだ捕まっていない。


「この分では国外に逃亡する可能性が高い、コンデを過ぎるとブリュッセルあたりまで行かねばならぬかも知れぬな」


「隊長、我々にお任せ下さい。何が何でも捕らえてきますよ」
ジェローデルは頼もしく笑って、兵を率いて行った。




**********




ベルサイユに戻ると、アンドレが屋敷から飛び出してきて彼女を迎えた。

まず馬の手綱を受け取り、「大丈夫だったか」と声をかける。

そしてジャンヌを捕らえた時の様子を一通り聞き出そうとした。



結局、ジャンヌを乗せた馬車は丸ごと彼女が雇った者たちで、街道馬車になりすましていた。単にその場で雇われただけなので残りの乗客は放免された。


彼女の話が済めば今度はアンドレが話す番だ。


「来たんだよ。ロザリーを呼び出しに変な男が来たもんだから俺が出ていったんだけど、そいつ、目的がばれたと思ったのかいきなり飛びかかってきやがって」


「ほう、やはり来たのか」


「捕まえてみればレトーとかいう詐欺師で、ジャンヌの愛人だったぜ」
アンドレは自慢げに胸を張った。

何でもレトーが言うには自宅に捜索が入ったので帰る場所がなくなって、ジャンヌから聞いていたロザリーの事を思いだして人質にしようとしたらしい。


「お前の馬鹿力もたまには役に立つんだな」
オスカルは横目で笑った。


「馬鹿は余計だろ、馬鹿は」とアンドレ、ささやかな抵抗。


数日後、ジェローデル一行はベルギーのブリュッセルで偽王妃を演じた娼婦のオリヴァーを発見して連行してきた。

ニコラスはどこにもおらず、もしかするとすでにイギリスに渡ってしまっていたのかも知れないと彼は報告した。

とにもかくにも事件を知る者たちが一同に捕らえられ、事の真相が明らかになろうとしていた。



2006/1/5/






up2006/1/21


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