−お知らせ−
このお話は史実に基づくものではなく、単なる妄想です。
一部に実在した人物・団体・物体・出来事・地名・思想・制度なども登場していますが、その行動や性格設定・実態・本質及び情景etcは、全て「でっちあげ」です。
それを承知の上、多少のことは目をつぶり、遊び心で読んでみようという方のみ、下へお進み下さい。




-運命の首飾り-



世の中が不安定になると不可思議なものが流行ってくるものかとアンドレは首をかしげていた。
彼は時折、ベルナールから新聞を何部か貰い、目を通しているのだ。


磁気とかいう力で病人を直してしまうメスメル医師や、未来を見通す力を持っているというカリオストロ伯爵。

魔術師のサン・ジェルマン伯爵なる人物は去年、亡くなったというのに今年に入ってから会った者もいて、本人は4000年生きていると豪語しているらしいし、サド侯爵という人物は奇行で世の中を何度もあっと言わせている。


そのカリオストロ伯爵がアントワネットに呼ばれ、彼女の未来を占ったのがついこの間の事である。

何でもアントワネットが魔力というものに興味を持ち、自分の行く先を見てもらおうと言いだしたのだが、彼は「王后陛下は今後、お考えを変えなければ王室にとって大変困難な時代を迎えましょう」と無礼な予言をし、アントワネットをカンカンに怒らせるだけに終わったと言う。



「そんなもん、予言者じゃなくても思いつくって」

アントワネットがかたくななまでに自己流を通す事は宮廷貴族のあいだでは知れ渡っている。
それが遠く離れたパリではさらに尾ひれが付き、とんでもない悪女として毎日どこかで誹謗中傷のやり玉にあがっていることはアンドレの耳にも入っている。


広大な敷地を持つアメリカで綿の生産が拡大し、アントワネットは故国のオーストリアと共にベルギーの綿産業の発展を助けたのだが、そのあおりでフランス国内の絹産業が打撃を受けた。

そのような事もあり、アントワネットは民衆からフランスの発展を阻害する「オーストリアのスパイ」とさえ批判され、反目する貴族たちからも冷ややかな目で見られていた。


宮廷の重苦しいしきたりを変えようとし、気の置けないつきあいを優先させたことについて、個人としては決してアントワネットを責める事は出来ないが、王妃という公人としての彼女にはさまざまな失態があった。


社交辞令という、一見無駄のようで実は相手を尊重する態度を少しでも示していたならば、あるいは多くの人との関わりを賢くこなしていれば、窮地に陥った時に助けとなるべき手を得られていたかも知れない。

アントワネットは全てにおいて自分自身を尊重し、周囲の空気や時代の移り変わりに流されまいとしていたのである。


オスカルが何度となく進言し、時には陰から支え、王妃の気付かぬところで新たな火種を消していったとしても、根本的にアントワネット自身が変わらなくては努力は報われない。

最近ではオスカルも王妃を変えるのではなく、自分自身がどう変わるべきかを模索しているらしい。

少なくとも、アンドレにはそう見えた。



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行方不明になっていたジャンヌはしばらく留守をしていたが、何事もない顔で帰ってきていた。

ロザリーには遠縁のおばさんが病気で、田舎に帰っていたのだと言っていたが、実はつじつまが合わない部分があった。


第一、遠縁であるなら姉妹であるロザリーにも一言声をかけていきそうなものである。

又、ベルナールがジャンヌの行方を調べた結果、馬車に彼女を乗せた御者はカレーの港まで送り届けたと言い、どうもイギリスへ行っていたのではないかと思われた。

ロザリーに聞いてもジャンヌがイギリスに知り合いがいたとはこれまで聞いた事もなく、ただ、いなくなる直前に突然、イギリスの話をし始めることが有ったと言う。


本人は親戚の家が北部にあると言うので、それ以上、誰も深い話に踏み込もうとはしなかったが、何となく心に引っかかる疑念だけが残った。




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その日、オスカルは妙なガラス器具が並ぶ実験室に来ていた。

化学者のラヴォアジェという徴税官とラテン語の話で盛り上がり、その話の延長で彼の持つ化学の実験室を訪ねて行ったのだが、そこで目にしたものは、世の中の仕組みというものが、神の創造した不可侵の神秘的なものではなく、科学的にもっと解明できる未知の世界であるという驚異であった。


「この気体を混ぜると水が出来るのですよ、酸素と水素というのですがね」
そう言って彼は無色透明のガラス器具の中で、何もないところから水を作って見せた。


「ほぅ、これは今、流行の魔術とは別なのですね」
オスカルは感心してつぶやく。


「全く違いますよ。魔術と違ってこれには根拠がある。滝が上から下へ流れ落ちるように、全ての物は自然の法則に従っているのです。この秩序こそ我々は神と呼ぶべきなのかも知りません。それに化学はもっと解明されて世の中の役に立つ事でしょう」
彼は自信たっぷりに言った。


少し前まではこの国も魔女狩りの歴史すら有り、人々は神が中心の世界観の中で生き、神や悪魔が人々の暮らしを左右するものと信じられてきた。


だが、最近ではどうだろう。

人間第一、化学、自由・国家という概念など、新しい考えが広く浸透し、今まで当然だったものが疑問視され、神秘的だったものが当たり前になり、価値観が大きく転換しようとしている。

オスカル自身すら、ここ十数年で考え方が変わっていった。


神にも近い王室に仕え、国の発展に貢献できる喜びに震えていた十代の頃。

アントワネットの行動に振り回されつつ、それでも絶対王権の維持こそが秩序であると信じようとした二十代の前半。

だが最近では、アントワネット自身が時代の流れに合わせていかなければ、国の舵取りは難しいのではないかと思い始めているこの頃の自分がいる。


決してアントワネットに民衆に媚びて欲しいというのではない。

せき止められた川が決壊するかのように、大きな時代の節目がすぐそこまで迫っているような緊迫感の中で、王妃という重要な地位にいる者がいかに注意深く先を見越し、知性と慈愛の気持ちで乗り切っていかねばならないかと考えた時、王室は貴族のみならず民衆とも手を取り合い、心から信頼できる先導者になるべきだという考え。


だがアントワネットにはそのような先進的な考え方は、単なる秩序を乱すものとしか見えていない。

第一、彼女にとって、反目する貴族も、直接知り合うきっかけなど無い民衆も、生きていく上でほとんど関わりを持つ義務感など持ち合わせていなかった。

王妃がオスカルの進言を聞いて頭で理解している事はわかっている。ただ、それを実行する気がないだけなのだ。


かつて宮廷の重すぎるしきたりを、オーストリアのような自由で伸び伸びとした風潮に改革しようとやっきになっていたのはアントワネットだった。世の空気を変えてきた本人が、いざ我が身の事となると保守に回る。

彼女はこの矛盾には気が付いていなかったのだ。


人が人である事を謳歌しようという人間中心の時代に、己だけが世の中心という絶対王制はもはや誰にとっても目の上のこぶのように思われはじめていたのである。


それぞれに違う身分の人々が協力し、共に国造りをしていくべきであるという想い。
立憲王制という言葉がオスカルの心の中で重く響いていた。




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ジャンヌにとって怒濤のような月日が流れていった。

ローアンから受け取ったダイヤの首飾りを夫のニコラスとバラバラにばらし、旅支度もそこそこにイギリスへと渡った。

レトーに換金を頼んだのだが、警察沙汰になってしまい、やはり国内で売りさばく事に危険を感じたからなのだが、それ以上にこの事がもしも表沙汰になれば子供まで巻き込んでしまう。

夫だけがイギリスへ行けば良かったのだが、子供の安全な居場所を見つけるためにジャンヌも同行したのである。

そして時間のかかるダイヤの処分のために夫と子供をイギリスに置いて、3月に入った頃、彼女はダイヤを売った代金のいくらかを懐に入れて、何食わぬ顔で自宅へと戻ってきたのである。


ローアンはアントワネットがなかなか首飾りを身につけない事を怪しんだが、分割払いが済むまでは自分のものではないから王妃の誇りにかけて使わないのだとジャンヌから説明を受けて鵜呑みにしていた。





ジャンヌはこんなに簡単に莫大な財産が得られるとは考えもしなかった。
もうこの国に用はないとさえ思っていた。

だがやはり故郷を離れてイギリスに居ると、フランスこそが自分の居場所であるかのような郷愁を感じ、思わず帰りの船に乗り込んでいたのだ。

何が懐かしいのか自分でもわからない。

ただ、いつかフランスからおさらばするにしても、一度帰らねばという気持ちが強く彼女を突き動かしていたのだ。


どうせアントワネットから心底嫌われているローアンには、遅かれ早かれ真相が明らかになる。
お人好しの彼はだまされた事に気付き、怒りながらも残金を支払い続けるだろう。

いつまでも嘘を積み重ねる事は危険が大きすぎる。
そろそろ潮時だという気はしていた。


それとアントワネットのほうも念のため、今しばらく注意が必要だ。
今、宮廷で召使いとして働く娘の中に、何人か知り合いが居る。

彼女らはお金に目がなく、いくらか包んでおけば宮廷でのちょっとしたうわさなども教えてくれるので、すぐにでも小遣いを渡しておかねばなるまい。


とは言え、帰れば帰ったで、夫もいないことも手伝って、何かと羽を伸ばしていることが出来る。

もうしばらくは遊び仲間を呼んで遊んだり、家具や宝石を買ったりと、人生の贅沢を楽しんでいたい。



やはりフランスには洗練された粋がある。居心地の良い優越感がある。離れがたい気持ちはこの感覚なのかとも思う。



だがふと、ジャンヌはポケットから粗末なハンカチーフを取り出した。

装飾品にもならない、下手な刺繍が縫いつけてある物だ。たしかこれをもらった時もうわの空で感激などなかった。

しかし物に執着しないジャンヌにすれば珍しく、旅のあいだも失うことなく身につけていた。


「ロザリー。まさかね、そんな事はない」
ジャンヌは小さく鼻で笑うと、この帰郷を最後にフランスから去っても良いと決意した。




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アントワネットはルイ・シャルルの健やかな成長を喜びつつ、再び自分の楽しみを再開しようとしていた。

何度も中断していたプチ・トリアノン劇場での芝居を成功させる事に夢中になっていたのである。

起きても芝居、寝ても芝居、早く「セビリヤの理髪師」を上演したくて仕方がない。もちろん彼女は主役のロジーナの役に決まっており、夫と会う時間さえ惜しんで芝居の稽古に没頭した。


時折、何か言いたそうなオスカルと出会ってもアントワネットは気にも留めない。

そう言えばオスカルが以前、何か言っていたわね、何だったかしら、だけど忘れるぐらいだから大したこと無いわ、という程度にしか考えなかった。





「アントワネット様、あなた様の行く先をこのオスカルの力でどれほどお守りできるかを憂慮致しております。是非、アントワネット様ご自身の良心の導きで、賢く世の中を賢明にお渡り下さいませ。私はあなた様の上に大きな神のご加護があるよう祈らずに居れませぬ」

目の前を通り過ぎていくアントワネットの背中を見つめつつ、オスカルはすでにアントワネットの未来を見据えていた。



アントワネットが一人の人としてかいま見せる善行をよく知るオスカルであった。

不当な刑に服した罪人を助けたり、目に止まった不幸な人を救う事は王妃の人間性を物語っていた。

尚更、彼女はアントワネットの行く末を心配せずにはいられなかったのだ。




そんなオスカルの願いとは裏腹に7月のある日、アントワネットの元に不可解な手紙が舞い込んだ。

フランスに来てすっかり生活にも慣れたアントワネットだが、時折、難しいフランス語の言葉や言い回しは理解できていなかった。

彼女はこう言う時にカンパン夫人を呼び、きちんと通訳してもらう。夫人は心優しく、アントワネットに忠実で頭が良い。「私にお任せ下さい」と手紙を手に取ったが、それでもこの手紙の内容は相変わらず不可解な物だった。


『王后陛下、このたびはお買いあげ頂き誠にありがとうございます』
と、はじまる手紙は仰々しく、核心部分は遠回しな言葉なので何が言いたいのかわからない。断片的にわかるのは一回目の支払いとか保証人とか聞き慣れぬ単語だけで、差出人の名は宝石商のベメールと書いてある。

そう言えばここ何ヶ月か、かの宝石商の姿を見ていない。


「まあ、ベメールは何を考えているのでしょう。私と誰かを間違ったのか、それとも忙しすぎて混乱しているのかしら」
アントワネットは何気なしに不可解な手紙を再び読もうとせず暖炉に放り込んだ。

支払いや分割などという訳のわからない言葉は見ているだけで頭痛がしそうだ。

彼女は見たくない物はさっさと処分したかったのだ。


「一体、何でございましょうね。おかしな人でございますこと」
カンパン夫人は暖炉の中で炎に包まれ、赤く黒くなり最後に白い灰になる手紙の残骸を見つめてつぶやいた。





そして運命の8月9日がやってくる。


数日前からベメールが王妃にお目通り願いたいと申し出ていたのだが、芝居の稽古も忙しいし、先日には探検家のペルーズが日本へ行くというので、好みのデザインの漆器を買ってくるように頼んだり、何かと彼女には新しい用事が次々と出来て、なかなか時間が取れない。

つい興味のない事は先延ばしていたのだが、あまりに必死になって言ってくるのでアントワネットも仕方なく9日なら良いと返事していたのだ。


顔色を失った宝石商のベメールとバサンジュは王妃の居間に呼ばれ、焦りを隠せぬ面持ちでアントワネットの前に進み出て、首飾りの第一回目の代金を支払って下さるようにと口を開いた。

アントワネットは得体の知れぬ話に警戒し、宮内大臣のブルトゥイユ男爵を同席させ、何かあれば助言をしてもらえるようにしていた。


ベメールの言う事が最初は何の事かアントワネットはさっぱり理解できなかった。

ただは眉をひそめて聞いていたのだが、ローアンの名が出てきたとたん彼女は激怒した。

あまりの勢いに隣室で控えていたポリニャック夫人はうろたえ、通りがかったランバル公爵夫人は青ざめて、誰かが狼藉を働いたものと思い違いをして、護衛の兵を呼びに行ったほどだ。


第一、ベメールの話と、アントワネットの真実は大きく食い違っていた。

アントワネットにすればジャンヌ・バロアという女性など見た事も聞いた事もなく、ローアンに至っては王妃の意地にかけて口をきいた事もない。

興奮のあまり顔を真っ赤にし、目に涙を浮かべて「ローアン枢機卿など死んでも口をきくはずがあるものですか」と言い捨てる。


だが、一方のベメールにすれば、ジャンヌは王妃の親友だと聞かされ、ローアン枢機卿に至ってはアントワネットと親密な仲にあり、このたびも夫のルイ十六世に内緒で、前々から欲しがっていたダイヤの首飾りを彼から贈られる手はずだったと聞いている。


実はこんなに話がややこしくなったのは、8月の初めに予定されていた第一回目の支払日にローアンが予定の金を段取りすることが出来なかったからなのだ。

莫大な資産を持つ彼は、反面、多額の借金を背負っていたのである。
入金がない以上、首飾りの真の持ち主に代金を請求するのは物事の道理だ。

まして首飾りが売れた事でベメール自身も金貸しに借りていた資金を支払わねばならない。

後がない彼は、無礼を承知でアントワネットの元へとやって来たのである。


今にも叫び出しそうなアントワネットと、追いつめられたベメールのあいだに抜き差しならぬ沈黙が訪れ、ようやくブルトゥイユ男爵が仲裁に入った。

そしてベメールにはこの件の詳しい資料を集めて、後日再び参上するように申しつけてこの場を何とか収めた。




アントワネットのローアンに対する軽蔑と嫌悪の感情は単純な先入観に過ぎず、王妃自身が何か直接的な事件で彼と対立したわけではない。

ただ一言で言えば、このような事件が起きた事自体をローアンその人一人のせいにしようとしたのである。


時代が変わりつつある事はアントワネットも気が付いている。又、民衆のみならず、貴族や僧侶の中にも王室をないがしろにする者がいる事も知っている。

自分の行動を軽率だと批判する者がいる事も知っているし、じわりと変わっていく良く中の空気を感じる事もある。


だが、時代の変化や歴史のうねりなど、彼女にとっては過去から積み重ねた秩序を乱す風潮としか思えず、決して受け入れられるものではなかった。


少なくとも、彼女がフランスへ嫁いできて、自ら変化を求めて宮廷を変えていった事が、他者にとっては秩序を乱しているに過ぎないという事を、彼女自身が気が付くほどの冷静さは、今、怒りに震えるアントワネットに求める事は難しい。


特に原因のわからぬ事件ほど得体の知れないものはない。

ローアン一人が原因だったと思いこむ事で、この出来事が単純な詐欺事件に過ぎないと彼女は納得して、一刻も早く安心したかったのである。




2006/1/2/


※くどいようですが、このお話は史実に基づいていません。念のため。(^^)


up2006/1/14


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