ベルサイユのばら外伝
−アナーセイの嵐−



 オスカルにはワカコンスタンツという姉がいた。

本編にはまったく登場してはいないが、当然登場するほど大した人物でもないし、ましてや歴史的にも何ら関係の無い存在だった。

その名も、はるかギリシャ・ローマ時代から栄えた美しい都市コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)に由来しているが、その上に“ワカ”がついたおかげで、本当によくワカらん女性に育っていた。


だがオスカルにとっては実の姉という厄介な存在で、ことあるごとにオスカルの仕事の邪魔をしたり、ちょっかいだけをかけてきていた。



 ワカコンスタンツの屋敷はパリからは遠く離れたアナーセイという小さな漁師町にあり、地場の産業と言えば小規模な鉄工業団地があるのみで、往来をいくとやたら老人が目につく過疎地だった。
彼女が嫁いだのはそうした工業団地の中で、製鎖工場を営む地方貴族ニュシーダー伯爵家である。
だが当時、海軍力を増大させんとする国家の指針により巻き起こった造船ブームは、造船には不可欠な鉄工業を活発にさせていたので、ワカコンスタンツ一家は裕福な暮しを送っていた。


 彼女はフランスの王家を守る将軍ジャルジェ家に生まれたはずなのに、生来の貧乏性でほとんど質素にしていた。
主人にはいつも同じ服を着せ、ディナーに多めに作り置きしたカレーシチューを翌日の朝昼晩ごはんに出したりしていた。
だが自分のドレスにだけはお金をかけていたようだ。

ニュシーダー伯爵は平民のように働くのが趣味で、毎日製鎖工場に出掛けていた。
だが屋敷に帰ったとたんに横になりぴたりと動かず、出無精ぶりを発揮した。
口癖は“らくして儲けたい”で、わしは鉄を鎖に加工しているが国王も錠前作りが好きなので、高貴な人間はやはりよく似とるわいと、たわいないことをいつも人に自慢していた。


 時に西暦1788年、オスカルはフランス衛兵隊に転属し、部下たちの信頼も得、任務にも慣れて来ていた。だが不穏な空気が漂うパリの町は革命へと燃え上がる直前の小さな火の手があちこちに上がり始め、パリ市中特別警戒に当たる彼女は激務に追われていた。


 そんな折りも折り、革命とは全く無縁のアナーセイ地方から、ワカコンスタンツの使いがジャルジェ家にやって来た。

使いの持って来た知らせは、アナーセイの地元の舞踏会にオスカルを招き、花を添えてもらおうというものだった。
本来ならこの忙しいときに舞踏会など出ている暇など無いのだが、そこは他人の事など何も考えていないワカコンスタンツの事、オスカルが持って来るたくさんの手土産を期待しているのと、片田舎でも知らない者はいないという麗しいオスカルが自分の妹であることを自慢したいが為であった。


 どうせ身内の事だし招待を断ればいいのだが、そこはニュシーダー伯爵家が後ろにあることゆえに……
と言いたいがそうではなく、ただ単にワカコンスタンツがウザいほどしつこく来い来いと言ってくるのであった。

ジャルジェ夫人はワカコンスタンツが田舎で話相手もなく寂しくしているのだろうといい方へ解釈し、オスカルにアナーセイへ行くように勧めた。
オスカルは母上のご意向ならばと、やむなく重い腰を上げてアナーセイへ行く決意をした。


彼女はさっそくばあやを呼び、ワカコンスタンツの好きなロッテリーアのパン料理とフライドポテト、そしてパリでも有名なケーキ屋“シャトレーゼ”(そこはベルナール・シャトレの実家でもある)のモンブランをすぐに用意するように言った。ばあやは、ようございますと二つ返事で素早く手配し始めた。

物騒なパリを離れるとは言え独りだけでは危ない旅なので、もちろん供にはアンドレを連れて行くことにした。その間の衛兵隊の指揮はアランに任せた。


 パリを抜けると辺りはのどかな田園地方の表情を見せていた。

さすがにパリ近郊の村では反王政派による集会や明らかに過激と思われる集団も見受けられたが、それも離れるにつれ、だんだんなくなり、急速に変わりつつある時代とは縁が切れたような緑鮮やかな畑が馬車の窓の外に広がっていた。


 そうして心穏やかに花畑を眺めていると、フェルゼンに心を寄せていたのも遥か昔の事のように思えた。
また、アンドレから思いも寄らぬ告白を聞かされたことも……。

しかしこの頃では、その時の記憶も遠ざかり、アンドレに対しての気まずい思いもなくなってきていた。そう、二人は幼い頃から兄妹のようにして育って来たのだ。多少の事では二人の絆は揺るがないのだった。


ワカコンスタンツの事はアンドレもよく知っていた。飾り気がなく庶民的で、6人の子供を育て上げた“力強い女性”という印象がある。
どの子も母親の血を引いて、そうとう豪快に育ったのではないかと想像しただけで何やらおかしくなってくる。

不意にオスカルが笑った。長年の勘で、アンドレはオスカルが自分と同じことを考えて笑っているのがわかった。だがここしばらく激務に追われて、張り詰めていたオスカルの笑顔を久しぶりに見て、この旅は正解だったとアンドレは思った。
そして会う前からオスカルの気持ちをほぐしてくれているワカコンスタンツに感謝した。



 アナーセイは馬車で二日ほど西に走った海外沿いにある。夕刻になって二人は町に到着し、そのままワカコンスタンツの屋敷を目指した。馬車にはお土産にケーキとパン料理をどっさり積んでいる。
屋敷が近づくにつれ、馬車にいてもはっきりと聞き取れるくらい、ワカコンスタンツの声が届いて来た。

「ちょっと、そこ片付けて言うたやろ!」
「……ポソポソ」
「えー!それ、誰が出しっ放しにしとるねん…?!」
「……ポソポソ」
ワカコンスタンツが誰かと話をしているのだろうか、だが聞こえてくるのは彼女の大声ばかりだった。
それもカンサーイ地方独特の方言がすっかり板に付き、コッテコテのカンサーイ人になっていた。


「姉上の声だ、アンドレ。姉上は声が大きくて、ひそひそ話ができない体質だとよく言われていた」
オスカルは久しぶりに聞く姉の声を聞いて嬉しそうに言った。ここでは時間が止まっているかのように平和だったからだ。
オスカルはパリもここのようになればよいのにと願った。パリでは革命の足音が日増しに大きくなっていたのだ。


すぐに馬車の音を聞き付けて、ワカコンスタンツが勝手口から飛び出して来た。
6人の子供を産んでそれなりに変わってしまった体型、適当にまとめただけの髪に化粧気のない日焼けした顔。
夜更かしのしすぎで、目の下に隈の出来た顔を化粧でごまかしているパリの遊び好きの貴夫人とは、180度かけ離れていた。


「お久しぶりです、ワカコンスタンツ姉上」
「よう来たな、オスカル。まあ、上がってんケ〜」

彼女はオスカルとアンドレの二人を屋敷の居間に通した。持って来たお土産はまたたく間にテーブルの上で包みだけを残して消えて行った。
まだ育ち盛りの5番目と6番目の娘は都会のお菓子が珍しいらしく、嬉しそうに頬ばっていた。聞くと上の娘たちはすでに嫁いでいるらしい。
しばらく全員で楽しい語らいをしていたが夜も更けて来たので、オスカルは用意してもらった部屋へ下がった。


 オスカルは旅の疲れを少し感じながら大きなため息をついてベッドに腰掛け、ぼんやりと考えていた。


暖かい家庭と、女としての幸せ。


男にしか見ることが出来ない広い世界にも触れられず、歴史の表舞台に出ることもなく、子供を育てて年老いていく……、だがその日その日をたくましく生きているワカコンスタンツの姿。
いつかジェローデルがオスカルに対して用意してくれたもの……。


 彼女がふと顔を上げると、窓からやわらかな月明かりが暗い部屋に差し込んでいるのが目に入った。オスカルはその月明かりがまぶしいバルコニーに誘われるように出て行った。

「眠れないのか、オスカル」
そこにはアンドレが風に当たりに出ていた。
「ああ、久しぶりに姉上に会ってはしゃぎ過ぎたのかも知れないな」
オスカルは伏せ目がちにそう言って、白いバルコニーの手摺りに寄りかかった。
「姉上は元気ハツラツなお方だな。お前は何かとムキになって思い詰めるから、少しは姉上を見習ったらどうだ」
「バカを言え」
オスカルは即座に言った。
「……だが、」
「何だ、オスカル?」
「……」


オスカルは言葉を考えているのかしばし黙りこんだ。
「覚えているか、アンドレ。私が軍服を着ようとしないで、すねていたのを」
「ああ、覚えているとも。だがお前は自分の意志で軍服を選んだ」
「私は男になりたかった、男に生まれていたら何かと悩まずに済んだのだから」
オスカルは漠然と沸き上がってくる不安を押さえつけるかのように拳を握り締めた。
その横顔が憂いを帯びて、月明かりにくっきりと浮かび上がっている。アンドレはギリシャ神話に出てくる女神のように美しいオスカルをしばし見とれていた。

「アンドレ、女としての幸せは結婚だけなのか。私はその答えを知りたいといつも思う。だが私にはしなくてはならないことがたくさんあって、新しく生まれ変わろうとしているフランスを見守り、父上のためにもジャルジェ家の未来を考えなければいけないのだ」
オスカルは一気にまくし立てた。思ったことをこんなに口に出したのはここ久しくないことだった。

「オスカル。俺は、お前が思ったまま、真に心の決めるまま進んで行くことが、お前の幸せなのだと信じている。……俺はそんなお前の傍らでお前の支えになればそれでいいと思う」
アンドレは静かに言った。

そう、アンドレはいつも冷静で控えめだったが、必ずオスカルのそばにいてくれた。オスカルはどうにもならないことを一人で悩んでいるのが何だかとても無駄な気がしてきて、自分でもだんだん気持ちが落ち着いてくるのがわかった。

「アンドレ……」
「おやすみ、オスカル。明日は早い、今夜はもう寝るとしよう」
アンドレはオスカルの肩を軽くたたいて自分の部屋へ戻って行った。



 翌朝、いつもの習慣でオスカルよりも早く起き出したアンドレは屋敷の庭を軽く散歩していた。
庭は雑草が茂り、雑然としている。よく見ると屋根にはペンペン草が生えているではないか?!
昨日は暗くなってから到着したのであまり気がつかなかったが、部屋も隅のほうには綿ぼこりが落ちていた。

そういえば、使用人を雇ってからワカコンスタンツがまったく動かなくなり太ってきたので、ニュシーダー伯爵はやむなく使用人に暇を取らせたと言っていた。
そうすれば彼女もこまめに掃除をして痩せるだろうと思ったのだ。
だがそれが大きな間違いで、ただ単に屋敷がほこりまみれになっただけだった。
しかしそこは小さいことでガタガタ言うニュシーダー伯爵ではない。気にしない、それのみだそうだ。
そう、ワカコンスタンツは掃除が嫌いなのだ。



 朝食が済むと、一同はテラスでお茶を飲んだ。
「消火のホースは、細いものを何本か束ねて放水したほうがいいな」
ニュシーダー伯爵はふとした会話のきっかけで、そう言った。

近ごろ空気が乾燥して、この地方では火事が頻繁に起こっていた。特に昼間は貴族平民共に、アナーセイの男たちは工場で働いており、町には女だけが残っていると言ってよいほどだった。
そんな男たちの留守をあずかる女たちにとって、いざ町中で“火事”と言うときのために、消防訓練が行われていたのだ。
アナーセイ婦人会の会長になっていたワカコンスタンツは、訓練の際には先頭に立って放水を体験したほどだ。


当時のホースはとても重く、火事場に運ぶだけでも疲れてしまうほどだった。長い時間放水していると、ホースの重さと放水の勢いで頑丈な男でも音を上げてしまうのだ。
持ち運びが便利で、女性でも消火活動ができるような妙案を、消防士だけではなく、誰もがあれこれ考えていた。ニュシーダー伯爵もそんな中の一人だった。

「いいや、ホースは太いものを一本だけの方が巻き取りもええし、二本以上やと、ホースの連結に手間がかかるからアカンで」
ワカコンスタンツは訓練で体験したことを思い出しながら、深く考えずに言い返した。
元々、体育会系の彼女のことである。腕に自信があるので他のか弱い女性の立場など全く理解出来なかったのである。

ま、いずれにしても単なる朝の雑談で「ホース」のことなどどちらでもいいことなのだが、もう少し、この夫婦の会話につきあってみよう。

「そんな事はない、お前も物分かりの悪い女だな。ホースは二本以上の方がいいに決まっている。軽いし、持ち運びも便利だし」
ニュシーダーもムキになる。
「ぜーったい、太ぉ〜て一本の方がええがな」
ワカコンスタンツは譲らない。
彼女の言葉使いは完璧にカンサーイ地方の言葉になっていて、ほとんど平民と変わらなくなっていた。これにはニュシーダー伯爵もすでにあきらめていた。

オスカルとアンドレは二人の会話を黙って聞いていた。どうでもよい中身だった。それどころか、我が身にはなんら関係のない、全く身のない会話だったのだ。
が、下手に口をはさんで墓穴を掘る気にはならなかった。どちらかと言えばはやくこの話題を終わってほしいと思った。コメントを求められても困るだけだし……。


「アンドレ、馬が気になると言っていたな、私も見に行こう」
オスカルは立ち上がって言った。とりあえず、この場を抜け出そうと思ったのだ。
「そうだな、オスカル、行こうか」
二人はそういって馬小屋へ行った。


 立ち去るアンドレの顔を見て、ワカコンスタンツはこの男がオスカルの事を好きで好きでたまらないのだというのが一目見てわかった。まずオスカルを見る目付きが違うし、顔に“好き”と書いてあるのと同然なのだ。だが妙に生真面目なオスカルにはその気持ちの十分の一も届いていないのだろう、気の毒な男だ。
あのオスカルのような賢い女を落とすには、男は女にあれこれ考える暇を与えずに、行動を起こして無理やりさらって行くぐらいの勢いがなければだめだろうと、ワカコンスタンツは思った。
でも妹はなんと幸せなんだろう、こんないい男に命がけで惚れられて。ワカコンスタンツは姉妹の中でも特に美しく生まれたオスカルを腹立たしくも思った。



 舞踏会は、アナーセイの中でも特に身分の高いハマール侯爵の屋敷で華やかに開かれた。
オスカルが正装をし、ワカコンスタンツの手を取って広間へ現れると、たちまち辺りには物珍しさで人垣が出来た。
「まあ、その方がワカコンスタンツさんの妹さんですの?」
「なんと美しい方なのかしら」
「私にも紹介して下さらない、ワカコンスタンツさん」
香水や化粧の匂いがオスカルを包んだ。

嫌いだ。

だが、姉の付き合いがあるので、オスカルは涼しい顔で夫人たちに受け答えしていた。そしてダンスはあらかじめ決めていた娘とだけ踊った。
これはワカコンスタンツの計らいであった。そうしないと婦人たちは後になってから、誰をえこひいきしただの、私を無視しただのとうるさく言うからだ。大ざっぱに見えて、ワカコンスタンツはその点、抜け目がなかった。


ついでにこの機を利用して、オスカルの胸に自分が趣味で作った花の造花を飾っておいた。いい宣伝になる。
この花をたまたま褒めた貴夫人に、オスカルはワカコンスタンツが作ったことをそれとなく話した。それはその場にいた貴婦人たちの間にたちまち広まり、私も私もとワカコンスタンツに造花の作製の依頼が舞い込んで来た。

オスカルには前もって含みを持たせて暗に宣伝するように言っておいたのだ。
貴族とは言え、女も手に職をもたなければこれからの世の中、渡って行けないとワカコンスタンツは考えていた。

これで小遣いが稼げる……。彼女はにんまり笑った。


 舞踏会は無事に終わり、オスカル一行はワカコンスタンツの屋敷へ戻ろうとしていた。
「今宵は本当に楽しませていただきましたよ、ワカコンスタンツさん。あなたの自慢の妹さんを拝見できて」
舞踏会を開いた屋敷のハマール夫人は心から喜んだ。
「いいえ、とんでもない。ふつつかな妹ですわ、わっはっはっ」
ワカコンスタンツは軽く笑い飛ばした。
「まぁ、ワカコンスタンツさんたら、いつも威勢がよろしいわね、おっほっほっ」
ハマール夫人もワカコンスタンツに合わせて高笑いした。

パリでは見ることができないような素朴で本音で生きている人々だとアンドレは思った。
だが、ワカコンスタンツは本当にオスカルとは血がつながっているのだろうか。アンドレは心の中でう〜んとうなった。


「では、姉上。そろそろおいとま致しましょう」
アンドレが馬車を取りに行ったので、オスカルは姉を促した。
「ほんまやな、オスカル。そしたら行こか」

 帰りの馬車の中で、ワカコンスタンツは今夜注文を受けた造花の数と、注文主の名を手帳に書き写していた。
オスカルはその様子を観察しながら、(ここはパリでもないし、貴族が人のために働いてお金を稼ぐのは近い将来当たり前のことになるだろう)と思った。
だが母上がご覧になれば、将軍家の娘が平民のようなことをしてはなりませんと、お嘆きになるだろう。


「ちょっと、オスカル。あんたも計算てつどうて」
「……」
「何や、寝とんけ」
オスカルはとっさに目を伏せて寝たふりをした。

さっきは造花の宣伝までさせられて大メイワクなのに、そんなものまでいちいち手伝わされてなるものか。まず第一私の仕事はフランス衛兵隊の隊長なのだから。
それでなくてもと、ここにいるとただの“おばちゃん”になってしまうような気がするのに。


 馬車がワカコンスタンツの屋敷を目指して、ほぼ半分の道程を帰った頃だろうか、背後で異様な騒ぎが起こった。
馬車を駆っていたアンドレはすぐに振り返り、たった今、いとまを告げた屋敷の辺りに火の手が上がっているのを見つけた。
「オスカル、火事が起きているぞ」
「何だって、あっ」
オスカルは馬車の窓から身を乗り出してアンドレの指さす方へ目をやった。
そこは確かにハマール夫人の屋敷の辺りだった。


「えっ、火事やて??はよ〜見に行こ」
アンドレやオスカルが心配しているのをよそに、ワカコンスタンツは既にやじ馬と化していた。



一行はさっそく今来た道をとって返した。
 火事はやはりハマール夫人の屋敷だった。
アナーセイは以前にも述べたが、フランス大革命とはほとんど無縁の村である。非日常的な出来事は、全てイベントになっていた。
火事の現場にはすでにやじ馬がいっぱいいて、わざわざ馬で駆けつけたやじ馬もいた。


 一同が駆けつけた時、ハマール夫人とその家族は、燃え上がる3階建の屋敷の外で我を失っておろおろしていた。消防隊はまだ来ておらず、火は折からの風を受けてごうごうと燃えさかっていた。
また、運悪く、アナーセイの男たちはチャラチャラした舞踏会が嫌いで、大多数が近くの温泉に出掛けてしまっていたのだ。そして、火に包まれた屋敷の3階の窓には、何とハマール夫人の孫が二人、逃げ遅れて泣き叫んでいた。


「アンドレ、子供を助けるぞ」
オスカルの言葉よりも早く、アンドレは手近な桶の水をかぶり、炎が吹き出している屋敷の玄関に飛び込んで行った。そして、オスカルもすぐに全身に水をかけて、アンドレに続いた。

彼らが子供を救出に飛び込んで行ったのとほぼ同時に消防隊が到着した。
屋敷はもう時間の問題で焼け落ちるだろう。だが子供たちを助けなければならない。
あまりに激しい火の勢いに、ただぼうぜんと見守っていたアナーセイの人々は、アンドレとオスカルの命懸けの救出活動を見て、がぜん勇気を沸き立たせた。


ワカコンスタンツはいの一番にホースを握り締めると、仰角45度にホースを構えた。
「よっしゃ、行くでぇー」
ワカコンスタンツの掛け声と共に、ポンプから水が勢いよく送られてきた。

その衝撃はすさまじいものがあった。彼女の体は反動で一瞬のけぞった。そして水の柱は子供たちのいる3階めがけて突き進んだ。


「ワカコンスタンツさん、がんばって!!」
貴婦人たちは彼女を励ました。そして、自らもホースを取り、ワカコンスタンツに続いて消火活動を開始した。力のない者は小川から給水車にバケツリレーで水を補給した。
今、彼らは一致団結して、子供とオスカルたちを取り戻すために奮戦した。


「うりゃぁぁぁ!ほれぇ〜!行けぇ〜〜!!」


ワカコンスタンツは足をふんばり仁王立ちになり、髪を振り乱して、放水していた。
それは妹のオスカルを助けようと言うよりは、暴れ狂う火に対してほとんど本能的に戦っていたと言う方が正しいだろう。
だが、その姿は回りの者から見れば雄々しく勇ましく、非常に力強く……ほぼ、女には見えなかった。



 オスカルは14歳で女に決別した。
 そしてワカコンスタンツは既に“女を捨てて”いた。


そういう意味からすれば、この姉あってのあの妹、と言えるのかもしれない。




 同じ頃、燃えさかる屋敷に飛び込んで行ったアンドレとオスカルは、火の中を何とかかいくぐって子供たちに近づこうと試みていた。
乾燥した空気が木を燃えやすくしており、火に包まれた天井板や壁が二人めがけて襲いかかっていた。
オスカルは白い正装服を着ていたが、あちこち引っかけて破れ、すすけて黒くなっていた。


「オスカル、大丈夫か」
「私はいいが、お前こそ」
二人はこんな時でもお互いをいたわりあっていた。
3階へ上がる階段は真ん中が焼け落ち、炎が吹き上がっていた。熱気もすさまじく、二人はハンカチで顔を覆った。

(この分ではたとえ子供のところに行けても、脱出は無理だ)

二人が同時にそう感じたとき、子供の泣き声が聞こえてきた。
「熱いよぅ、助けてー」
「お母さ…」


 その声に引き付けられるかのように、オスカルは燃え残っている階段の端を駆け上がり、子供の声のする方へ走った。
「オスカル、危ない、俺が行くまで待ってるんだ」
アンドレはオスカルを一人行かせることはできないので、彼女の後を追った。階段はもろく崩れ、アンドレは何度も足を踏み外しそうになったが、勢いだけで何とか3階へと上り切った。

そして二人は子供の声が聞こえてきたドアの前で、立ち止まった。
「アンドレ、このドアが熱で歪んで開かないんだ」
オスカルはいまいましそうに叫んだ。この中に子供がいるのに……。
「よし、下がってろ、オスカル」
アンドレは勢いをつけて肩からドアにぶつかって行った。
そのとたん、衝撃で火にまみれた梁が天井を突き破り、オスカルめがけて落ちてきた。


「危ない!」
とっさにアンドレはオスカルに覆いかぶさるようにしてかばった。
だが梁はアンドレの背中を直撃した。
「ううっ……」
彼の背中に鋭い痛みが走った。落ちて来た梁の衝撃だけではない、ささくれだった梁の先端に接触して服が破れ、背中にやけどを負ってしまったのだ。
「アンドレー!」
オスカルはアンドレの腕の中で思わず叫んだ。
「大丈夫か、アンドレ」
「何の、これしきの事……」
だが、背中の痛みは相当なものだった。


「つっ…!」
必死に立ち上がろうとするアンドレの間近にオスカルの顔があった。
美しいブロンドの髪は飛びかかる火の粉でところどころ焦げ、頬や額はすすけて汚れている。
だが、このような命ぎりぎりの所で、彼女の瞳は静かで深遠な海の色に輝いていた。
その涼しげな色とは裏腹に、燃え上がるような情熱をたたえたその瞳がアンドレを見つめている……。


そんなオスカルはこの世のものではないほど美しかった。


この一瞬を生きている彼女の暖かい血の通った体がここにある。


そしてそれはこの腕の中で、今を必死で生きようと、己の心の命ずるままに死を賭けた火の中で、オスカルの、何か言葉にできない思いがアンドレに伝わってきた。彼は刹那、オスカルを強く抱き締めた。

オスカルの瞳がさざ波のように揺れた。


生きる、この崇高な神から与えられた試練を、お前と共に!オスカル!


 アンドレは痛みをこらえ、立ち上がり再びドアにぶつかって行った。
ドーンという音を立ててドアは丁番を吹き飛ばし、部屋に向かって倒れた。そしてアンドレも子供たちが泣きじゃくっているその部屋に転がり込んだ。

部屋の中はワカコンスタンツの放水が届いていたお陰で、炎が弱まっていた。
すぐ後に飛び込んだオスカルは子供たちが無事なのを見て、思わず神に感謝した。

「お兄ちゃん」
子供たちは二人を見て、安心したのか抱き付いてきた。まだ幼い兄妹だ。二人は励ましあって助けを待っていたのだろう。オスカルはこの二人と、自分たちとがどこかで重なって見えた。
「よしよし、もう大丈夫だ」
オスカルはやっと見つけた小さな命を抱き締めた。どんなに不安だったろう、その体は小刻みに震えている。この子たちをなんとしてでも助けなければ。

だが、部屋は煙が充満しつつあり、ここもすぐに火が回ってきそうだった。それに通ってきた所は既に火が回って帰れそうにない。アンドレもそう思ってか、万策尽きたかという顔をした。


「お兄ちゃん、こっちこっち」
突然、子供が嬉しそうにドアの外を指さした。
「お兄ちゃんがドアを壊してくれたから、隠し部屋から出られるよ」
屋敷には隠し部屋と秘密の通路があり、子供たちはこの部屋のドアが開かなくて、別の部屋にある秘密の通路に行けず、仕方なく窓際にしがみついていたらしい。


 時折、窓から入ってくる放水を体にかけて濡らし、一同は子供の指示に従ってさらに奥の部屋の壁にかけてある絵を動かし、秘密の通路に入った。
通路は頑丈な石造りになっていて、おいそれとは燃えない仕組みだった。多少の煙は入っていたが、3階から1階へ降りる程度なら、それほど難しいことではなかった。



 4人が秘密の通路を抜けて、再び炎が渦巻く玄関から出て来た時には、歓声があちこちで上がった。貴族も平民も、みんな手を取り合って喜んだ。そして間もなく、消火活動もかいなく、ハマール侯爵の屋敷は全焼した。


「おばあちゃま!」
「お母さま!」
子供たちは母親やハマール夫人にしがみついて喜んだ。


「オスカル、ようやったで」
ワカコンスタンツは放水のしぶきでずぶ濡れになっていた。
「姉上こそ、休みなく放水をして下さったからです」
「アンドレ、大丈夫か」
「……」
オスカルはアンドレの背中が服も裂け、ひどくやけどを負っていることに気づいた。

「いけない、アンドレ。お前にもしものことがあっては」
「ほんまやで。誰か、医者のフカッツ先生を呼んで来て」
ワカコンスタンツは手際よく火事の後始末をした。
誰もが疲れていたが、子供を無事救えた喜びで沸き返っていた。



 アナーセイの人間は立ち直りが早い。火事などで落ち込んでいる暇は無いのだ。屋敷がなくなってしまったハマール侯爵はさっそく村一番の大工を呼び、以前のような立派な屋敷を建て直してくれるように頼んだ。
屋敷が出来るまでの仮住まいは、離れでも別荘でも、いくらでもあった。

そもそも燃えた屋敷も老朽化が進み、まもなく建て替えする予定だったのだ。
出火原因も、単なる火の不始末であると判明した。


 もしかしてこの火事は、フランスの軍事力の増大を恐れているイギリスの陰謀だろうか、もしくは地方にくすぶっている過激な反王政派による貴族への無差別なテロ行為だろうか……などと推測して、内心緊張したのはどうやらオスカルだけだったようだ。
ここでは貴族と平民は仲が良く、助け合っていたのだから。……やはり、アナーセイには革命は無縁だった。



翌日。

 ワカコンスタンツの屋敷にはプチ・トリアノンという離れがあった。とは言っても恐れ多くもベルサイユ宮殿にある本物とは似ても似つかないボロボロの離れだ。
どこにでも、やたら有名なものにちなんで自分の身の回りにある物に同じ名前をつける者がいるが、ご多分にもれず、ここにもプチ・トリアノンがあった。

 アンドレの背中のやけどは応急処置がよかったせいか大事には至らず、すぐに回復した。そしてワカコンスタンツの屋敷に来てからもう一週間が過ぎようとしていた。留守にしているパリの衛兵隊が気になる。
プチ・トリアノンというからどんな建物だろうかと見に来たアンドレとオスカルはそれが100人乗っても大丈夫なただの納戸だと知り、がっくりきていた。


だが天気はよく、庭は広かった。
「アンドレ、行くぞ」
「よし、負けるもんか」
二人は久しぶりに剣の手合わせをしていた。
パリに帰ると、オスカルには再び激務が待っていた。こうして無心に剣のけいこなどやっている暇は無いだろう。

一方アンドレは火の中でオスカルを抱き締めたときの感覚を思い出していた。
永遠に続けと願ったその時のことを。その一瞬、オスカルはアンドレの腕の中にいた。
仕事に追われると、オスカルの頭の中はフランスの未来と、部下の命の心配とでいっぱいになってしまう。
(そうなればお前には俺のことなど考える時間すらないのだろうな。それほどにお前の肩にかかった責任は重い。やがてお前は振り向きもせず、革命の渦の中に向かって行くのか?俺は不安だ)


「やーっ」
アンドレはオスカルの肩越しに踏み込んで行った。
だがオスカルは切っ先を素早くかわしてかがみこんだ。
体勢を崩したアンドレはそのまま勢いがついて地面に倒れ込んだ。
その瞬間、アンドレには自分の動きがスローモーションで動いているかのように感じられた。そして彼の剣をかわしたオスカルの口元にほほ笑みが浮かんでいるのが見えた。
オスカルもこのひとときを楽しんでいる。アンドレはもうそれで充分だった。


「いてて……」
「あはは。もう降参か?アンドレ」
地面に転がったアンドレを見て、オスカルは愉快そうに笑った。その顔は子供の頃にかえったようだった。

アンドレはすかさず起き上がり、オスカルの足元にひざまずき、おおげさな身振りでお辞儀をした。彼女はアンドレの突然の行動に少し戸惑った。
「ははっ、私は貴方様の忠実なしもべでございます……なんてね」
アンドレは笑っておどけて見せた。
オスカルも傍らに腰を下ろし、一緒に笑った。

その様子を見ていたならば、ワカコンスタンツでなくとも二人がとても仲の良い兄妹に見えたことだろう。
「アンドレ、そろそろおいとましよう、パリが気になる」
オスカルは吹っ切れたように言った。
「うむ、そうだな」



 そんなやり取りをしていたら、ワカコンスタンツがいそいそとやって来た。
ハマール侯爵の屋敷が再建されることになり、今日の午後、上棟の祝いの“餅まき”があるという知らせが届いたと言う。
餅と言っても、フランスなので、固焼きパンのことである。このパンをめでたいことのあった家の主人たちが、臨時にこしらえたやぐらの上から、下で待ち受けている人々に向かってたくさんまくのである。

当然、餅は早い者勝ちで、いくら取ってもよく、その上、タダなのだ。
この三拍子はワカコンスタンツを燃え立たせるのに充分だった。


オスカルは姉にいとまを告げた。
「ほんまけ、でも仕事もほっとけへんし、しゃあないな」
ワカコンスタンツはそう言って残念がった。
「そやけどオスカル、仕事も根つめたらあかんで、ボチボチしいや」
「はい、ありがとうございます、姉上」
「それからアンドレ。あんたはもっと、ちゃっちゃとしいや」
ワカコンスタンツはそう言ってアンドレを励ました。

もちろん、オスカルにしつこくアタックしろと言ったのだ。
「はい、ありがとうございます、ワカコンスタンツ様」

アンドレはワカコンスタンツの言った言葉の意味より何より、この人は本当の本当にオスカルと血がつながっているのだろうかと激しく悩んだ。そして俺のオスカルがワカコンスタンツじゃなくて良かったと、しみじみ思った。



 オスカルたちが馬車に荷物を積み終わった頃、ワカコンスタンツは一族郎党と出無精の主人も狩り出し、餅を一つでもたくさん拾うために腕まくりをして出て行こうとしていた。
「では姉上、私はこの辺でおいとま致します。姉上もごきげん麗しく」
「挨拶はええから、アンタも一緒に餅を拾わへんか。一人でも多いほうがええねん」
そう、餅まきは身内が多ければ多いほど、持って帰る餅が多くて都合が良いのだ。
ワカコンスチンツの魂胆は見えていた。

「……あ、いえ、よそ者の私が一緒に入りますと、姉上にご迷惑がかかります。私はこのまま帰りますので、お気遣いなく……」
オスカルは苦しい言い訳をして、ワカコンスタンツの屋敷を後にした。

 パリへ向かう馬車の中からは、やぐらを組んだ畑にはいつくばり民衆に交じって餅を拾いまくるワカコンスタンツのたくましい後ろ姿が見えていた。

オスカルは彼女の姿が地平線の彼方に小さくなって見えなくなるまで見つめ続けていた。
貴族とは言え、あのようなしぶとさと抜け目のなさは、まさに民衆の持つ力そのものなのだろう。
ワカコンスタンツはいつかのジャンヌよりもうわてだった。オスカルは今初めて民衆の底力を見せつけられたような気がした。


そしていつかアンドレが“今の時代は貴族には不利だ”と言っていた事を彼女は身をもって実感していた。



 そう、ワカコンスタンツ。

彼女はまさにアナーセイ地方に咲いている大輪のビア腹…じゃなくて……太っ腹…じゃなくて…豚バラでもなくて……、もとい、生命力だけは雑草のようにしぶとい珍種のバラなのだった(バラしか合うてへんやんけ)。


おわり                   
1996.5.10.
編集2004.12.15.


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