−お知らせ−
このお話は史実に基づくものではなく、単なる妄想です。
一部に実在した人物・団体・物体・出来事・地名・思想・制度なども登場していますが、その行動や性格設定・実態・本質及び情景etcは、全て「でっちあげ」です。
それを承知の上、多少のことは目をつぶり、遊び心で読んでみようという方のみ、下へお進み下さい。




-危険な遊び-



「何だかこの冬はいつもより冷え込むなあ」

朝が早いアンドレは掃除に取りかかろうとこの日も厩に向かっていた。
厩の屋根にはつららが下がり、猛獣の牙のように彼を狙っている。


先日の舞踏会の様子を知る者から伝え聞く限りでは、フェルゼンと謎の貴婦人が人々の注目を浴びて踊っていたという。

ドレスを着て舞踏会に出かけたことで、オスカル自身の中でどう決着をつけたのか、フェルゼンがスウェーデンに帰ってからこっち、彼女はすっかり落ち着きを取り戻していた。



アンドレにすれば、フェルゼンの前で女として振る舞うことだけで激しい恋心が収まるものなのかという疑問もある。男と女とでは違うのだろうかとも考える。

人を好きになると言うことは、たとえば思いが通じることを願ったり、一つになりたいと思い続けることで、そう簡単にはあきらめはつかない。

特にオスカルとフェルゼンには色々な現実的なしがらみがあるとは言え、アンドレのように身分の違いはない。
もし本気なら彼に愛を告白することさえ可能なのだ。


それなのに相手に好きだとも告げず、ただドレスを着ただけで自分の気持ちを伝えなかった事は、結果として心の中で一区切りがつかないのではないのだろうかと思えて仕方がない。

又、彼らの間でどのような出来事があったのか、部外者のアンドレにはわからないので妙に心が落ち着かない。



だがフェルゼンの不在は冷却期間となり、彼女が気持ちを切り替える好機になっているようだ。

それにあれほど何事も完璧にこなし、いつのまにか人より優位に立っているオスカルなのだが、恋愛に関しては非常に奥手で、愛情を告白することも控えめに留まっている。

それを考えるといつもの意志貫徹型の彼女らしくなく、かえって愛らしいとさえ思えてくる。


結局、オスカルの気持ちを測り知ることは出来ないが、中途半端な恋の結末をアンドレはそっと見守ることにした。

何よりつらい切なそうな目をしたオスカルをもう見ることはないのだと思うと、彼は嬉しかった。




**********




その朝、アントワネットは大きく落胆していた。

朝食のナプキンの下から二つ折りの紙切れが出てきたのである。
開けて見ると、色々とアントワネットを中傷した文がつらつらと書いてある。

時々、こういう事があるのだが、結局は誰が仕組んだかはわからない。
テーブルセッティングまでにたくさんの給仕の手がかかわっているのだ。


中身はいつも言われている事ばかりで、ジョゼフがフェルゼンの子であるとか、アントワネットは大臣の首のすげ替えが得意だとか、とにかく彼女にとっては全くの言いがかりばかりで、まともに受け止めると怒りが湧いてくる。


さらにそのメモは夫である国王のナプキンにも仕込んであり、特にフェルゼンがからむ中傷文は、こういう色恋沙汰にうとい彼にとっても悲しませるには充分であった。


「私は陛下に対してやましい事など何一つしておりませんし、陛下を差し置いて大臣の首を勝手にすげかえたりなどは致しません」
アントワネットは紙切れの処分に困っている夫からそれを取り上げ、きわめて冷静に取り繕った。


召使いや貴族たちも彼女の動向を見守っている。
こんなことを気にしている様子を見せれば、彼らの思うつぼなのだ。


確かに、ポリニャック夫人や親しい友人たちの勧めで、良かれと思って何人かの人材を要職に推薦したことはある。
だが、いずれの場合も最後には国王が認めた者ばかりだったはずだ。


その昔デュ・バリ夫人に味方した大臣を解雇して、メルシー伯に小言を言われたことはあったが、単にアントワネットの思った通りに話が通っただけで、いちいち王妃の政治介入とののしられるのは割に合わない。

第一、誰が大臣になっても国益に大きく変わりはないではないか。


それに、確かに仲違いをして別れた人もいる。

誰だって悪い評判を聞けば、その人の事を疑って見てしまうし、顔も見たくないと思う。
中にはポリニャック夫人を悪く言ったので疎遠になった夫人たちもいる。

アントワネットはその時々の感情に従って、付き合う相手をより分けてきただけなのだ。



人が多く集まるところには、誰にでも些細ないさかいはある。

きっと、失脚した者たちが自分の非も顧みずに私を悪く言っているのだわ、それとも又、オルレアン公かしらと彼女は顔をしかめた。


つい先日もオルレアン公はいつもの目立ちたがりのくせを出し、いま流行の熱気球に乗り込んだまではいいもののすぐに墜落し、貴族のみならず民衆からも笑われたところだ。

もちろん、アントワネットもいい気味とばかりに笑っていたのだが、どこからともなくその事が彼に漏れ伝わったのかも知れぬ。



以前から王室を乗っ取ろうとしているオルレアン公だが、独立戦争の折りに海戦で大敗を記した彼を王妃が嘲笑し、それが元になり海軍での高い地位を受け損なった、と、彼は勝手に思いこんでいると言う。

そもそもは普段の行いの結果なのだが、彼にとっては余計にアントワネットの失墜を願う原因にもなっている。


最近では、国王のすぐ下の弟であるプロヴァンス伯も、外面は相変わらず王妃の遊び仲間を装っているが、腹の中では自分に王位がまわってこないことを逆恨みし、アントワネットを中傷するビラを密かに出しているという。

その下の弟のアルトア伯も、プロヴァンス伯よりも人当たりが良く、何かとアントワネットの遊びに付き合ってくれているが、腹の底までは読めない。


王族ばかりではなく貴族たちも平気で王室を批判し、智恵のある者は文才を利用して金のために王室の悪口を書き、民衆は身分制度がありながら下から平気で軽口をたたいている。

結局はみんな陰でつながってうまくやっており、真実を突き止めることは不可能だ。
かといって、周囲の人間に不信感を募らせていてもきりがない。

王妃たるもの何事にも落ち着いて対処しなければなにない。
隙を見せると他人はすぐにあげあしを取ろうと狙ってくるのだから。



人の悪口を言う時は軽薄で、プライドは人一倍高い。
この国の人々はみんなそうなのかしらと王妃はつくづく思った。

だが、こんなことで落ち込んではいられない。

アントワネットは悪口を書き連ねた紙切れを丸め、暖炉に放り込んだ。
そして気分を変え、ポリニャック夫人を呼び、密かな計画を立てることにした。


アントワネットは普段から深い考えもなく、親しい友人が言うままに知人を捨てたり、時には重要な人事に口をはさみ、悪気もなく国政にかかわったことを、さほど大事に捉えていなかった。


それに国王である夫は今もって、新婚当時の頼りない経験から王妃に頭が上がらないばかりか、何事もてきぱきと早急に判断するアントワネットに依存している。

たとえ途中で異論を唱えたとしても、最後には押し切られてしまって、彼女の提案に否と言うことすらしない。


確かに、どれも大した事ではないかも知れない。
だが、王妃がした事となると、どんな些細なことでも大きくなってしまうものだ。

彼女は批判の原因を自分の中に見つけようとはせず、相手の性格のせいだと責任転嫁していた。
又、他国から嫁いできた彼女は、互いの不理解を単なる国民性の違いであると安易に思いこんでいる。


かつてパリに初めて訪問した際、アントワネットの姿を見て熱狂した群衆の熱気をあらゆる意味で彼女は忘れていた。

熱狂は何かのきっかけに憎しみへ変わるということを。
又、王妃の立ち振る舞いはどんな些細な悪いことでも目立ってしまうと言うことを。



王妃になるべく生まれたものには神から授かった権利があるという揺るぎない自信は、時に物事の一部を見えなくしてしまう。

今、国中の誰からも自分が悪い意味で目立っていることを、彼女だけがまだ知らなかった。




**********




「何い?フィガロの結婚だと?」
オスカルは思わずアンドレに聞き返した。

さすがに若い頃と違い、かんしゃくを起こして軍服を脱ぎ捨て、ソファにたたきつけるようなことはしなかったが、とにかくその話を聞いた時、近年になく険しい表情をした。
多分、怒っているのだろう。


劇作家ボーマルシェの傑作でもある「フィガロの結婚」は、モラルの欠如した横暴な貴族を、一般庶民である主人公のフィガロたちがこらしめるという内容で、貴族を馬鹿にし、身分制度を皮肉っているとことから上演を禁止されていた。

それをこっそりと誰かが陰で手配し、今夜、劇場で演じられることになったと、間際になってジャルジェ家へ情報が流れてきたのである。


「さすがに俺も弁護できないな。確か反体制の導火線になるから上演は禁止されていたはずだよな。……劇は面白いとは思うけれど」
最後の言葉はボソリと小声で言いつつ、アンドレは彼女をあえてなだめたりはしない。

オスカルが怒るのはもっともなのだから。


前作の「セビリヤの理髪師」が絶賛を受け、その待ちに待った続編が今回の「フィガロ」なのだが、制度を批判しているとあっては、たとえ面白い劇に仕上がっていても規制無しでは済まされない。

最終的には国王も劇の内容を聞いた上で、直々にこの劇の上演を禁止している。


それでもボーマルシェは懲りずにこの作品をあちこちで宣伝し、すでに水面下では貴族も巻き込んで熱狂的な支持を得ていた。


貴族を皮肉った劇が貴族に受けるのも変な話だが、世の流れに彼らは敏感だった。

この時期、啓蒙思想が広がり、人々は昔からの慣習や迷信にとらわれず、合理的で改革を目指したものを活発に受け入れていたのだ。

「フィガロ」が評判の作品の続編というだけでなく、非常にテンポも良く面白いとなれば、真っ先に貴族たちは飛びついてくる。

皮肉なことに、王が禁止したと言うことが余計に評判を呼ぶ結果となってしまっているほどで、ボーマルシェはそんなことも計算に入れているらしい。


彼は文才に長けているばかりか非常に頭が切れる人物で、一時は王室に付いてアントワネットとルイ十六世の評判を高めるためにヨーロッパ諸国を巡っていたり、ある時はオーストリアのマリア・テレジアの怒りをかって監禁されたりと、どこかに落ち着くわけではなく自分の好き勝手に立ち回り、ひと癖もふた癖もある人生を送っていた。

彼は今、自作の劇が大流行し、あらゆる手段を使って富と高い名声を得ることを目指しているのだ。



ちょっとしたいきさつでフランスがアントワネットの祖国に荷担したら、たちまち民衆が王妃を「オーストリア女」とののしるほどである。

誰しも、夫をないがしろにする妻を快く思うはずがない。ましてそれがアントワネットであれば、どんな批判が待ち受けているかわかったものではない。

快楽を求めるあまり、前後の見境のないアントワネットに、オスカルもこれほどあきれたことはなかった。


進言することには慎重なオスカルも、黙って見過ごすわけにはいかない。
それにフェルゼンからアントワネットを守って欲しいと頼まれた約束もある。




**********




「王后陛下、恐れながら申し上げます。今夜のフィガロの結婚の上演は、陛下にとって大変危険な転機になってしまいます。是非、劇の差し止めをお命じ下さいませ」
オスカルは大急ぎでベルサイユ宮殿に駆けつけ、息を弾ませた状態のままで懇願した。


「そのことなら心配は無用です」
アントワネットは聞きたくないという風に、テーブルの花瓶に生けてあるばらの花に手を伸ばした。

オスカルの言いたいことはよくわかっている。
だけれども、心がうきうきするような劇を見たくて仕方がない気持ちを、彼女は抑えたくないのだ。



「私事でございますが、フェルゼンなら決してこのような方法を喜ばないと思うのです」

フェルゼン、という言葉にアントワネットの態度が変わった。
彼女はオスカルの言葉の続きを聞こうと、少し顔をこちらに向けた。



「私の口からこのようなことを申し上げるのは大変恐れ多いことと存じます。それにフェルゼンが決して同じことを申し上げるとは限りません。ですが彼の留守中、陛下に何かあれば、私は彼に合わせる顔がございません」
オスカルの言葉にアントワネットは少し考え込んでいた。


「わかりました、オスカル。今回はあなたの言うことを聞きましょう。実は今夜の上演を黙認しようと思われていた国王陛下が今日になって気持ちを変えられて、劇場を閉鎖するように命令を下されたのです。それでも皆は劇場へ足を運ぶことでしょうが、私は行きません。もしフェルゼンが悲しむのであれば、私はちっとも楽しくありませんから」


「アントワネット様」
オスカルは深々と頭を下げ、感謝の意を表明して王妃の前から辞した。





ほっとした気持ちのまま宮殿を出たオスカルだが、ふと気になってリアンクール公に会って話を聞く事にした。
国王のそばにいて、アントワネットの動きも知っている彼なら、詳しい事が聞き出せるかも知れない。


「よくぞ王妃様を止めてくれました。それだけでも私はありがたい」
会うなりさっそく、リアンクール公はオスカルに握手を求め、いつになく感情が高ぶっていた。


「いえ、感謝して頂くような事ではないのですが、ただ王妃様が動かれると、後々どういう形で尾を引くかも知れません。危険はできるだけ回避したかったのです」
オスカルは淡々と言う。


「先日、厚かましい事にポリニャック夫人が自分の領地でこの劇を上演させたのですが、それを知った王妃様が解禁に向けて奔走なさっていたのですよ」
リアンクール公はポリニャック夫人のことがどうしても好きになれないせいか、彼女の名前を口に出す時は、いかにも嫌そうな表情になる。



要するに、貴族たちが密かにパリで俳優を集めてこの劇を上演しようとする計画に、ポリニャック夫人に影響されたアントワネットが一口乗っていたのだと言う。

もし実現していれば、国王自らが禁止した劇を王妃がわざわざ上演させたと批判を浴びるようなものだ。

オスカルにしても初めて聞いた話なのだが、アントワネットの軽率な行為に思わず言葉を失った。



「王妃様を止める事が出来る人物は数少ない。その点、ジャルジェ大佐は心強い」
公は信頼を持った目でオスカルを見つめた。





しかしオスカルは素直に喜ぶ事が出来なかった。

今ではアントワネットを説得する事がますます難しくなってきていた。
まして進言する際にフェルゼンの名を出している自分に、彼女自身が戸惑いを感じていたのだ。


「王妃付きの仕官」という名はオスカルにとって、アントワネットが立派な王妃として国民に愛されることを願いつつ、彼女自身も陰日向になりながら王妃を補佐していくものと信じていた。

王后陛下と臣下という身分の違いは心得ているが、同じ歳に生まれ同じ女というだけでなく、それぞれの持って生まれた運命のために二人が巡り会ったことで、オスカルはアントワネットに対して並々ならぬ心のつながりを感じていた。


まして、たぐいまれな運命を背負って生きているアントワネットと共に成長し、互いに自分を高め合うような関係でありたいと、オスカルは今まで長いあいだ願ってきたのだ。


しかし、今の彼女には「王妃付きの仕官」という言葉が虚しく響くばかりであった。




2005/10/26/




up2005/11/21



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