−お知らせ−
このお話は史実に基づくものではなく、単なる妄想です。
一部に実在した人物・団体・物体・出来事・地名・思想・制度なども登場していますが、その行動や性格設定・実態・本質及び情景etcは、全て「でっちあげ」です。
それを承知の上、多少のことは目をつぶり、遊び心で読んでみようという方のみ、下へお進み下さい。




-迷いの果てに-



アメリカからの帰国後、しばらくフランスに滞在していたフェルゼンだが、故国のスウェーデンの国王・グスタフ三世の命令で一時的に帰郷することになった。

危険な任務ではないのだが、国王に付いて諸国を廻る旅に出るので、少なく見積もっても一年ぐらいはかかる。


彼は帰国の準備にあわただしい合間を縫ってオスカルの元へやってきて、留守中、アントワネットの力になってくれるよう力強く彼女の手を握って頼み込んだ。

アントワネットはフェルゼンだけではなくオスカルにとっても又、忠誠を誓った君主である。

彼は同じ仕官としてオスカルを信頼していたし、昔から彼女が王妃の事を心から心配しているのもよく知っている。

何より二人の関係を見守ってくれているオスカルを、フェルゼンは心強く思っていた。



だが最近、アントワネットのことを話すと、オスカルはどこか寂しげな表情をしているように思われた。

決して二人の関係をとがめる風ではなし、沈みがちなフェルゼンを励まそうとしているのだが、オスカルの目は笑っていないのだ。


「この国で心から信用できるのはお前だけなんだ、オスカル」
フェルゼンにすれば、自身が不在の間に何か事件が起きてもすぐに王妃の元へ駆け付けることは出来ない。

彼は頼を置いているオスカルに是か非でもアントワネットを任せたかったのである。



「何を言うか、私はそもそも王妃付きの仕官なのだぞ」
と、笑うオスカルだが、その心は複雑だった。


アントワネットに対する自分の忠誠心は揺るぎないものだと信じてきた。

それは今もそうあるべきだと自分の中では決めている。
だが、様々な感情があってこそ人間なのだということを、オスカルは身をもって知っていた。


フェルゼンの身を案じ、帰りを待ちわびていたのはアントワネットその人ばかりではない。

まして、アントワネットとフェルゼンの両者から、苦しい恋を打ち明けられ、じっと聞き手にまわる役目のつらさ。
悩みを吐きだし、しばし安息を得る二人は、オスカルの気持ちになど全く気付かない。


自分に振り向いて欲しいと思ったのは一度や二度ではない。
オスカルは切なさを独りで抱え込むことがこれほどにつらいものかと実感していた。



片恋の苦しみはいつ終わるとも知れない。

オスカルは男として生きると誓った若い日を思い出し、ひたすら純粋にアントワネットに仕えようとした過去の自分を振り返り、長い間積み重ねてきたフェルゼンへの想いをそろそろ整理しなければならないと思いはじめていた。

この国の行く先を案じ、これから起きるであろう激流の時代を予感する中で、いつまでも浮ついた気持ちを引きずるのは良くないと思ったのだ。



これ以上、個人的な感情で悩み続ける事はオスカルにとっても不利になるばかりであった。

第一、任務に差し障ることがあってはならない。
もしかすると今はたまたま幸運で何事も起きてはいないだけで、いつ何時、不慮の事態に遭遇するかわからない。


そうなってからでは遅いのだ。


以前の彼女であれば、愛や恋などに悩むと言うことなどよほど暇な人間か、もしくは心に隙があるだけだと鼻で笑っていただろう。


思えば人の一生のうちには思いもよらぬ出来事が待ちかまえており、月日の積み重ねとはまるで旅のごとく先の見えない長い道のりを行くようなものだと感じられる。


彼女はフェルゼンへの想いが募れば募るほど、自分が女であることを自覚せずにはいられなかった。

そのような気持ちをもてあまし、どう対処してよいかわからずに枕をぬらす夜が幾夜有ったのか数え切れない。



だが、オスカルは女としてフェルゼンの前に佇むことは出来ないと感じていた。

彼女は男として生きてきた。今更、という思いがある。
さらに、彼女の君主であるアントワネットが愛する男性を密かに慕うことのつらさ。

ましてアントワネットとフェルゼンは決して結ばれない間柄なのである。
ままならぬ想いに苦悩する二人のため息を聞き、時には二人の心を支え、それでもこの、どうにもならない関係がオスカルにも同じような閉塞感を感じさせていた。


このようなことで今後も長く悩み続けるのであれば、フェルゼンからもベルサイユ宮殿からも逃げだし、全てを忘れさせてくれる激務に就くことも良いかも知れないとさえ思う。


感情を理性で割り切ることは難しい。

だが、オスカルは今あえてそうすべきであると考えていた。

もし一時の情熱に身を任せ、結果としてこれまでやって来たこと全てを捨ててしまうことにでもなれば、今までの自分を否定する事のように思える。


否、怖ろしいのは、自分もまだ知らぬ己の本性だ。

自分で考えている以上にフェルゼンへの想いが激しく、ジャルジェ家の未来を捨て、義務も責任も放りだし、それでも情熱に走ろうとするのがもしかすると今まで気付かなかった自分の本質なのかも知れない、と、頭の中で想像するだけでも身震いがする。


何よりも一番危機を感じるのは、そのような事で日々悩み、答えを急ぐあまりどうにかしなければと焦ることで、自分で自分を追い込みつつある事、そのものだ。



しかし、人はなるようにしかならない。

さんざん頭で悩んでいることほど時間の無駄ではないだろうか。

時には己の心に従い、情熱のおもむくままに動くことも大切だと、もう一人の彼女が助言する。





一度でも良い、フェルゼンの腕に抱かれてみたい。


彼女の心の中に次第にそういう気持ちがわき起こってきたのは、もうすぐフェルゼンが故国へ帰る直前のことである。

恋の熱をどうやって鎮めたものか、オスカルはこれまでずっと考え続けていた。

だが、一度だけでも良い。もし彼が自分を一人の女として力強い腕で抱きしめてくれるのであればそれで良い、そうすればきっとこの恋に終止符が打てる、むしろ打たなければと思い始めていた。


それはオスカルの信用にかかわるという対外的なことのみならず、彼女自身が自分に対して、厳しく処さなければならないと決意したからである。




**********




ある夜アンドレは、ジャルジェ家の屋敷でばあやが上機嫌で忙しそうに立ち振る舞うのを偶然見かけた。


今夜は旦那様と奥様が不在で、オスカルも食事はいらないと言っていた。

召使いたちはそれぞれの用事を済ませて、この時ばかりはと自室に下がっているし、ばあやが忙しいと言うのはどうにもおかしい。


だが、楽しい密かな企みは向こうから正体をばらしてくれるものである。

「旦那様や奥様には内緒にしておくんだよ。お嬢様が今夜の舞踏会にドレスを着て行くとおっしゃられてさ、もう私は天に昇る気分だよ。そうそう、お前は裏門に馬車を用意して見張っていておいておくれ。だけどくれぐれも内緒だからね、わかったね」


「な…なんでオスカルがドレスなんだ」
アンドレは我が耳を疑った。

あれほど女として振る舞うことを拒絶していた彼女の心変わりがすぐに理解できなかった。


「何でもこの間、ロザリーに着付けしていたときに、自分でも一度ドレスを着てみたくなられたそうだよ。何でもいいけど、長い間生きていたら良いこともあるもんだねぇ」
ばあやは嬉しさのあまり頬が上気していた。

彼女はぼう然とたたずむアンドレには目もくれず、年寄りとは思えぬ軽い足取りでドレス部屋へと駆け込んでいく。



だがアンドレはすぐに事情がわかりはじめていた。

今夜、舞踏会があるヴィオメニール侯爵家はフェルゼンと深い縁がある。
ヴィオメニール侯爵はフェルゼンと共にアメリカ独立戦争に参戦し、功績を買われて元帥へ上り詰めた。

侯爵本人はさほど華やかな席は得意ではないが、独立戦争の立役者が揃うと言うこともあって、今夜の舞踏会は多くの人々が押しかけて賑わうだろうと言われている。



オスカルの目的はフェルゼンにドレス姿を見せることなのだ。

彼は脱力感を感じ、さらに裏門でオスカルを見送るときも、目もくらむような彼女の白いドレス姿を目の前にして、何も言えない立場であることを思い知った。

又、オスカルもアンドレがこの場にいないかのように無視し、全く彼には目もくれず、馬車に乗り込んでいく。

まるでそこに居るのはオスカルではなく、もう一人の自分であるかのように。



恋とは残酷なものである。他のもの全てが見えなくなるのだ。


ドレスをまとい、少し緊張気味のオスカルの横顔を馬車の窓越しにちらりと見ながら、アンドレはいつもと違う彼女に接する隙もなく、走り去る馬車を見送ってからも、ただ悔し紛れに門柱を何度も蹴飛ばしていた。




**********




フェルゼンがその貴婦人にあったのは、ヴィオメニール侯爵家の舞踏会だった。


大理石の柱の影に佇むその女性はひときわ目立つ美しいブロンドの髪をしていた。

高く結い上げられた髪に飾られた金のティアラには大きなサファイアがはめ込まれ、金糸で縁取られた光沢の良い白いドレスは均整の取れた体にほどよく添い、すそにかけて自然なドレープを生み出していた。彼女の胸元に輝くブドウの房のようなダイヤのブローチは、密やかな息づかいにやわらかく揺れている。

舞踏会に来ている人々は「外国から来た貴婦人らしい」と、ひそひそとうわさしあっていた。



その女性は目立たないところにいたにもかかわらず、見た目の優雅さと長身のせいもあってか人目を惹き、他の男性たちの視線を集めていた。


しかし彼女の深く碧い瞳は確実にフェルゼンを捉えている。



彼のほうもその意味はよく解っていた。つい引き寄せられるように近付いていったのはしごく自然な流れであった。


フェルゼンが優雅にお辞儀をすると貴婦人は手を差し出し、二人は滑るように踊り始めた。

言葉に自信がないのか、彼女からはフェルゼンに話しかけることはない。



二人が踊る姿は軽やかで表現力があり、それでいて気品にあふれていた。
周囲の人々はしばし自分たちが踊ることすら忘れて見入っている。


貴婦人の腰に手を当てた彼は、彼女の身のこなしが優雅で、動きに無駄がないことを感じていた。

確かに女性としては平均よりも背が高く、体つきも引き締まっており、きっと活動的な女性なのだと想像できる。




一方のオスカルはただフェルゼンの腕に抱かれ、彼に寄り添うことでこの上なく幸せな気分に浸っていた。

いつもはほのかに感じていたフェルゼンの香りが、この時ばかりは肌のぬくもりと共に身近に感じられる。

女性として育っていたのなら、このように愛する男性に守られ、降り注ぐような愛情を得ていたのだろうかと漠然と考え、今はただ、自分をじっと見つめるフェルゼンの視線に時めき、女としての満足を感じていた。




「私は先日までアメリカにいました」
貴婦人が外国の女性と聞いていた彼は、返事を期待せずに語りはじめた。


「戦いのさなか、何度も脳裏に浮かんだのは、フランスにいる友の顔でした。彼女は女性でありながら男として育ち、軍人として非常に才能を持っているのです。私たちはよく話し、時には議論し、心から信頼しあっています。私にとって彼女の存在は心の安らぎでもあるのですよ」

フェルゼンはオスカルの事を語っていた。黙って聞いている彼女は小さく相づちを打った。


「彼女は女性としても繊細な心を持っているのですが、男性に勝るほど職務に対する責任感も持ち合わせている。しかし男性の中でただ一人彼女が奮闘するにはあまりにも周囲の理解はない。ひょっとすると女性たちの間でも理解が得られず、色々と苦労をしているのかも知れません。私の彼女に対する気持ちは友情に違いないと思っているのですが、時折彼女を守ってやりたいという、愛おしい気持ちがわき上がってくるのです」



フェルゼンの言葉にオスカルは思わず涙があふれてきた。


彼はオスカルが思っている以上に彼女のことを想い、理解してくれていたのだ。

彼を好きになったのは間違いではない、確かにそう思えた。



「いや、失礼。このような事をあなたに申し上げてもきっと楽しくない話題でしょう。ただ、あなたが彼女に非常に似ておいでなのでつい口が軽くなってしまった」

とっさにうつむいた彼女が、あたかもつまらなさそうにしていると思ったフェルゼンはあわてて謝った。


しかし彼女が再び顔を上げ、うるんだ瞳を彼を向けたとき、フェルゼンははっと気が付いた。

面影は似ているとは思ったがあまり深く考えず、単なる他人のそら似だと気に留めなかった。

そう言えばこの貴婦人の体つきは、先日ジャルジェ家で思わずオスカルを抱きしめたときの感触と似ている。



「お前、…オスカルなのか」


驚いたようにいきなりオスカルの両腕をつかみ、まじまじとフェルゼンが彼女を見つめる。
オスカルは動揺し、彼の腕を振り払うと、人混みの中から逃げ出すかのように早足で中庭に出ていった。




**********




オスカルは逃げた。

フェルゼンに自分の正体を明らかにしたくはなかった。

この恋は誰の目にも触れず、誰に迷惑かけることなく自分一人でひっそりと処分してしまいたかったのだ。


だが、着慣れぬドレスは足にからみ、胴を締め付けるコルセットはいつものように軽快に走ることには全く適していなかった。

すぐにみぞおちが痛み始め、軽いめまいさえ覚える。



一方、何も知らないフェルゼンは腕から逃げ出した謎の貴婦人を追いかけていた。

自分が失礼なことを言ってしまったのかも知れない。そして彼女の正体も気になる。



中庭には人々が集って談話できるように所々たいまつがたかれ、あずまやにはワインが用意され、又、低木の植え込みの陰には恋人たちのためにほどよい暗闇が広がっていた。

すでに何組かの男女がひそひそとささやき合っており、彼は邪魔をしないように歩調をゆるめた。



消えた貴婦人をようやく見つけたときには、茂みに半ば隠れている奥まったあずまやで彼女が弾んだ息を静めているところだった。

フェルゼンが追ってきた事に気が付いた彼女は驚いたような表情を浮かべたのだが、すぐに顔を和ませ、ミニテーブルに用意してあるワインの入ったグラスを彼に勧めた。


聞きたいことはある。

だが貴婦人は落ち着いた様子で、魅力的に微笑みかけていた。
グラスを受け取り尚かつ、質問攻めにすることでこの場の雰囲気を台無しにするのは、男としてあまりにも野暮な話だ。


あずまやには時折、心地よい風が吹き、頭上の木々を揺らして木の葉を落としていく。

彼女はワインを平然な顔で次々と飲み干し、酒はたしなむ程度のフェルゼンは負けぬようにグラスを傾けたもののすぐに劣勢になっていた。



二人がずいぶん飲んた頃、「星がきれいですわね」という風なことを貴婦人が言った……と彼は記憶している。

彼は星よりも彼女のほうが美しいと心から感じたので、そのような事を答えたと思う。

大胆な視線でフェルゼンを誘い、かと思えば突然逃げ出す不思議な貴婦人に、彼は非常に魅力を感じていた。


こうやってワインを傾けていても彼女は決して乱れたりせず、清楚な面持ちで彼を見つめている。深い海の色をした碧い瞳は、彼女が浮ついた性格ではなく、身も心も純粋であることを物語っていた。



もし王妃と出会う前に、このような女性と巡り会っていたなら、と、彼は酔いの回った頭で不意に考えていた。


アントワネットへの想いは決して楽しい恋ではない、報われぬ愛ほどつらいものはない。

戦地での経験を経て、人の一生とは何なのかを自分に問いかけた日々。

フェルゼンの脳裏には自分の人生の選択肢が枝のように分かれ、目の前に無数の未来が広がっている様子が一瞬のうちに浮かび上がっていく。


運命の分岐点が今までにいくつあったのだろうと思うのと同時に、自分が選んだ道を決して後悔したくなかった。

しかし思いとは裏腹に、彼は貴婦人の手を取り自分に引き寄せるとそっと抱いた。




説明のしようがないがオスカルには今、フェルゼンが自分を親友のオスカルではないかとうすうす気付いて、抱きしめているのが手に取るようにわかっていた。

アントワネットという女性の存在が彼の心に深く食い込んでいるにもかかわらず、今宵の彼はオスカルだけのものであった。

彼女はこの大切な時間を心に刻みつけようと目を閉じ、フェルゼンの抱擁に身を任せた。




しばらくして舞踏会が開かれている屋敷から、闇にまぎれて出て行く一台の馬車があった。




**********




オスカルはその夜、遅くなってジャルジェ家の門をくぐった。

着慣れぬドレスは窮屈で体はこり固まり、高く結い上げるために髪を引っ張ったおかげでズキズキと頭痛がする。


ドレスを脱ぎ、いつもの軍服に着替えたときは、生き返った気がしていた。

ただ、着替えに用意していた白い手袋が片方だけ見あたらなかったのだが、オスカルはさほど気に留めなかった。



帰りには将軍も屋敷へ戻っているはずなので、密かに着替えて帰ることははじめから決まっていた。
彼女は酔っぱらったフェルゼンが眠るまで見届けて帰ってきたのだ。


オスカルはほっとした気持ちになっていた。

自分の気持ちを整理するために彼の前で女として振る舞った今夜の行動に後悔はない。
結果的に、激情に駆られて今の自分を捨ててしまうこともしなかった。

今夜のことは自分一人だけの美しい思い出になるであろう。


だが気持ちが落ち着き、現実にかえるにつれ、自分らしからぬ軽率な行動であったことに彼女はようやく気づきはじめていた。

普段からは想像できぬたおやかなドレス姿と化粧で変身していたとは言え、元々の姿形は大きく変えられるものではない。


やがてフェルゼンが真実に気付くことも充分にあり得るのだ。

しかしただ一度だけでも良い、たぎる情熱を押さえつけるばかりではなく、感情のおもむくままに振る舞ってみたかったのである。



人は生きているうちにある事に気付く。


自分の心の奥底ほど不可解なものはない、という事を。

もしかすると自分はどんな結果も全て受け入れる覚悟でこの夜に臨んだのかも知れない、とオスカルは思う。




**********




アンドレは彼女を送り出してからこっち、気が気ではなかった。

フェルゼンのために美しく着飾ったオスカルが何を考えていたのか、わからないことばかりだった。

確かなのは、彼女の女としての気持ちが自分に向いていないことだ。


やりどころのない怒りのような激しい感情が何度もわき上がり、彼はじっとしてはいられなかった。

ドレスを着たオスカルは、常に馬上で指揮を執っている武人とは思えないほど、どこから見ても美しい貴婦人だった。

もし女として育っていたなら、結婚の申し込みが殺到し、きっと裕福で思慮ある優しい男性の元に嫁いでいたであろうと考えると、それも又、彼には耐えられない事だった。


いずれにしても彼女が男として育ったからこそアンドレと出会っただけであり、身分にしても運命にしても、彼の立場はオスカルの恋愛対象から大きく脱落していた。



結局、床に就くこともできず、厩へ行き掃除を始めたり、用もないのに庭園をほっつきまわり、門番にくせ者と間違えられたり、とにかく落ち着きなく彼女の帰りを待ちわびた。



「何だ、アンドレ。まだ起きていたのか…」
ようやく屋敷へたどり着き、馬車から降りたオスカルは駆け寄ってきた彼に素っ気ない調子で言った。

だがアンドレの落ち着かない様子をすぐに見抜いたのか「……待っていてくれたのか」と付け加えた。


それからどちらからも言葉はなく、アンドレは馬の様子を見ながらぽつりと言った。

「早く寝ろよ、明日も早いから」


色々と聞きたいことはたくさんある。
だが、本当に聞きたいことはのどの奥からは出てこなかった。

自分の身分は召使いである。主人であるオスカルに干渉する権利はない。
仕える身であることは承知しているつもりだ。しかし何よりも聞くのが怖い。



「…そうする」

彼女も疲れているのか言葉少なだ。


後ろ姿を見送るアンドレの心がさらに動揺したのは、彼女の髪に木の葉が数枚絡まっているのが闇夜に見えたからである。


かつて姫を守る騎士のように生きると誓った彼であった。

だが自分に定めた生き方をつらぬくことの難しさを身をもって味わっていたのだ。
アンドレがその夜は眠れなかったことは言うまでもない。




**********




フェルゼンは翌日、頭痛とともに目覚めた。胸がむかむかする。

飲み過ぎたのか昨夜の記憶がすっかり飛んでいる。

執事が言うには、何事もない顔つきで馬車で帰ってきたらしいのだが、どうにも壊れた鏡のように自分の行動がバラバラにしか思い出せない。



彼はあずまやで謎の貴婦人にワインを勧められてからの記憶を失っていた。

森の精霊が心の隙につけ込み、いたずらをしたのではないかと真剣に思ったほどだ。
もしかして彼女は宝石を狙う盗人だったのかも知れない。
あわてて身につけたものをまさぐったが、盗難にあった気配もない。



結局、あれは夢だったのかと思うほど不思議な出来事だった。


後日、舞踏会を開いたヴィオメニール侯爵家に聞いたところ、謎の貴婦人の身辺までたどる糸はふっつりと切れており、探し出す手がかりもない。


ただ、彼女が去る時、引き留めようと手を引いたものか、彼の手に手袋が残されていた。

指のすらりと長い白手袋で、かすかに彼女の残り香がする。

確か貴婦人はこのような手袋を着けていなかったはずなのだが、あの夜は彼女以外に接触していない。


せめてもの手がかりにと、フェルゼンは大事そうに手袋を書斎の引き出しにしまい込んだ。




**********




この後フェルゼンは間もなくフランスを後にした。

立ち去るその日、ジャルジェ家に立ち寄った彼は、オスカルに「従姉妹はいるか」とたずねた。


何か言いたそうなフェルゼンに、オスカルは表情一つ変えず、「居ることはいるが、子供の頃に会っただけでつきあいはない」と軽く流し、それ以上踏み込んだ話にはならなかった。

彼は首をかしげて去っていった。




アントワネットに再会し、再びフランスに落ち着こうとしていたフェルゼンにとって一年余りの旅は後ろ髪を引かれる思いがしていたが、今度は必ず戻って来るという確信があった。


それに旅は慣れている。

又、色々な想いが去来することもあるだろうが、旅の景色が慰めてくれることだろう。
彼は馬車の窓から遠ざかっていくパリの町を振り返り、小さく敬礼した。

もう片方の手に、アントワネットの小さな肖像画が描かれた懐中時計を、しっかりと握りしめたまま。




フェルゼンが去った後、アントワネットは再び空虚な感情を味わっていた。

「でも今度は大丈夫。あの方は必ず帰ってこられるのだから」
すでに二人の間には揺るぎない信頼がある。

彼女はいつもの楽観的な考えで、寂しさをはねのけようとしていた。



今は子供たちに囲まれ、母としての幸せを実感している。
夫である国王からは信頼され、王太子を産み、王妃の務めも果たしている。


だが、それとは別にフェルゼンへの想いは揺るぎないものになっていた。


当然、彼女には王妃としての立場がある。

まして、妻以外に愛人を持とうともしない夫をないがしろにして、フェルゼンと深い仲になることは考えられなかった。

しかし彼女も気付いていたが、女としての情念は彼を求めているに違いなかった。



アントワネットは有る意味、オスカルを羨ましいと思った。

この年齢まで男を知らず純粋なままでいられることは、余計な悩みを知らないでいるのと同じなのではないかしら。



だが、ふと思う。


「オスカルは処女なのかしら?」


そういえば浮かれたうわさも聞かないし、密かに恋人がいるのかもよく知らない。

そもそもアントワネットは自分のことをおしゃべりするのは好きだが、人のことなど特に聞きたがらない性質なのだ。

オスカルとのつきあいは長いが、貴婦人方のサロンには寄りつかず、個人的なことなど一切話さない彼女の事については知らないことが多い。



たとえ恋人が出来たとしても、それはどんな男性なのかしら?ひょっとして女性?

そんなことを考えている自分がおかしくて、彼女は忍び笑った。




2005/01/31/



アントワネットが作った「愛の神殿」のような屋外の屋根付きテラスを日本語で言うと「あずまや」になるんでが、この「あずまや」というとどうも私にすれば「わびさび」のイメージが強いです。

果ては「子連れ狼」の主題歌の語りの部分に出てきた「壊れかけたあずまやの…」という、もの悲しい雰囲気を連想してしまいます。

ガーデニングとかでは「ガゼボ」とか「パーゴラ」とか呼んでるようでが、まだそんなに一般的ではないし、かえってイメージがつかみにくいんじゃないかと思います。

やっぱ、「あずまや」か〜〜。


up2005/10/29



戻る