−お知らせ− このお話は史実に基づくものではなく、単なる妄想です。 一部に実在した人物・団体・物体・出来事・地名・思想・制度なども登場していますが、その行動や性格設定・実態・本質及び情景etcは、全て「でっちあげ」です。 それを承知の上、多少のことは目をつぶり、遊び心で読んでみようという方のみ、下へお進み下さい。 -希望の空へ- フェルゼンは帰国後、あらためてプチ・トリアノンに参上し、人気のない社交の間でごく個人的にアントワネットにアメリカでの出来事を報告をした。 アントワネットはフェルゼンに椅子を勧め、以前と変わらぬ親しげな態度で彼を迎えた。 見た目はごく普通に、気の置けない友人を招いておしゃべりを楽しむ王妃の態度はいつもとなんら変わりない。 そう、変わりない風を装っているだけだとしても、見た目には普通に見えることもある。 フェルゼンは数日前にベルサイユ宮殿へ伺候した折りに話した事ばかりではなく、アメリカへ渡る船での出来事や、女性が興味を持ちそうな服飾の流行や先住民族の民芸品のことなど、比較的楽しかったことを選んで語った。 特に彼がちょっとしたお土産に持参した大振りのターコイズのブローチは、鮮やかな空色が見事で、先住民族がまじないの意味を込めて装飾品に使っていたという話に、思わずアントワネットも興味深く聞き入っていた。 「本当にいつも楽しいお話ですこと。ですがご無事でなによりでした。私はずいぶん心配いたしましたのよ」 アントワネットはここ何年もの心のつかえをようやく吐き出した。 「もったいないお言葉でございます。私はただフランスのために役立てるのであればと思い、戦地に赴いただけでございます」 「…フランスのため…なのですね」 一瞬、真顔になったアントワネットの問いかけはフェルゼンを試しているようだった。 心の底まで見透かすような碧い瞳に見つめられ、彼はしばし黙り込む。 「王后陛下、私は戦地の前線に赴き、多くの兵士たちの最期を看取って参りました。そして数多くの悲しみを経験し、命のはかなさを味わいました。しかしその反面、人は生あるうちに悔いなく、自分の想いを貫くことが大事なのだと、彼らによって気づかされたのです」 アントワネットに彼の真意はよくわかっていた。 戦地の報告一言一言が彼女にとって別の意味を教えてくれる。 彼女に対するフェルゼンの深い愛情というものを。 「あなたは私にとって大切な方です。危険な戦地に赴くことなく、どうぞこれからは無理なことはなさらずに、いつまでも健やかでいて下さい」 彼を再び死地に赴かせるようなことがあってはならないとアントワネットは心から祈る。 「私は彼の地で心に誓いました。これからの一生、私は誰とも結婚は致しません。私の生涯はただあなたに尽くすことのみでございます」 フェルゼンは決意も固く、真剣な面持ちで両の拳を握りしめていた。 アントワネットは彼の決意を聞いてついにこらえきれなくなり、両の手で顔を覆い静かな涙を流した。それは決してつらい涙ではなかった。 彼女はフェルゼンに何も命じた訳でもない、又、口に出して彼を束縛するような事を頼んだこともない。 だが、彼はアントワネットが望むことを察したかのように振る舞ってみせる。 「私に涙を流させるなんて、ひどい方ですね」 彼女はそう言い、泣き濡れた頬のままで微笑んだ。 「王后殿下、どうかお手を」 フェルゼンも又、アントワネットの感極まった姿に感動し、彼女の膝元にひざまずいた。 そして彼女がそっと差し出した白い手をしっかりと握りしめ見つめ合った。 ただそれだけで二人の間には単なる主従関係ではなく、それ以上の心のつながりが確認できたのである。 かつての舞踏会での出会いから、長い年月が過ぎていた。 ********** オスカルは、帰国したばかりのフェルゼンがアントワネットによって、フランス外国人部隊の連隊長に任命されたことを耳にした。 アメリカでの功績からして誰からも表立った異論はなく、王妃を快く思っていない一部の人々の間で「愛人をそばに置くための口実か」とささやかれていたが、口さがないうわさなど毎度のことで、再会を喜ぶアントワネットにとっては、取るに足らない中傷に過ぎない。 オスカルは彼のアメリカでの活躍をラ・ファイエット候から聞いていたので、あまり自分の自慢話をしたがらないフェルゼンの言葉少ない体験談から、さまざまな苦労や危険の数々を想像していた。 帰国が遅れたのは体調を崩したからだそうで、普段ならオスカルも友人として「向こうで離れたくない誰かが出来たのか」という程度の冗談を飛ばしそうなものだが、もはや彼に焦がれる身としてはなかなか強気な発言などできるはずもない。 ただ彼が無事に戻り、こうやって友として再会できただけでも神に感謝するばかりである。 何より元気な姿を身近なところで見ることが出来るのは幸せなことだと心から喜んでいる。 しかしアントワネットのために彼が一生結婚しないという固い決意を打ち明けられたときは、さすがのオスカルも激しく気持ちが揺れ、フェルゼンの愛情の深さに感動しつつ、一方では深い悲しみに沈んでいった。 “私の生涯はアントワネット様のためにある” オスカルは自室のベッドに体を横たえてフェルゼンの言葉を思い出していた。 男として生きてきた彼女は、女性として結婚など望んだことはなかった。 アントワネットのように見知らぬ男性の元へ嫁ぐことへの強い抵抗があったと言うわけでもない。 貴族の娘として生まれたのであれば、それは当たり前のことだ。 だが、たとえ姉たちが幸せな出会いと共に喜んで嫁いでいく姿を見たときでも、自分は男として生き、ジャルジェ家の跡を継ぐことが使命で、女性として幸せな家庭を築くことはまるで他人事のように思っていた。 現実的に考えて、一貴族に過ぎないフェルゼンと、王妃であるアントワネットはどうあがいても結ばれない運命にある。 感情を割り切って考えれば、フェルゼンが誰と結婚しようがアントワネットにきがねすることはない。全ては彼の気持ち次第のはずである。 それを考えれば、オスカルに機会が無いわけではない。 だがオスカルはこの恋に否定的だった。 フェルゼンに対しても、彼となら結婚しても良いなどと浮かれて考えたこともなかったし、主君であるアントワネットの存在を無視するなどという恐れ多い考えはみじんもなかった。 しかしどうしてなのか、彼の「誰とも結婚しない」という言葉にオスカルは深く悲しみを感じていた。 あたかも自分の全てが拒絶されたかのような気持ちでいっぱいになり、我ながら惨めな気分にひたり、自分らしくないと知りつつ涙があふれてきた。 女としての自分を見て欲しいと心から願ったのは、彼がはじめてだった。 出来るものなら彼に気持ちを打ち明け、受け入れてもらえたならどんなに気持ちが晴れるだろう。 フェルゼンが去ったときには離別の悲しみを、そして再会すれば再び片恋の苦しみが現実のものとなり、彼女の虚しい恋心は空回りするばかりであった。 人は恋を知ると人生の喜びや悲しみが倍増し、人知れず涙をこぼすこともある。 かつてのように、もはや人を愛する苦しみを知らない自分ではなくなってしまったことを、ことさらオスカルは思い知らされていた。 ********** この時期、アントワネットの肖像画を描いていたルブラン夫人は、王妃の穏やかな表情にうっとりしながら筆を進めていた。 「何か良いことでもおありだったのでしょうか」 夫人は思わず王妃に問いかけた。 実は彼女自身も又、宮廷で高い評価を得るようになり、由緒正しい王立アカデミーに入会し、富と栄誉を手に入れて充実した日々を送っていた。 しかし個人の生活はと言えば、浪費家の夫との関係がぎくしゃくし、彼女は人に頼らず自分の力で生きていこうと決意したばかりなのである。 「幸せとは何の出来事もなく、ただ愛する人たちが私のそばで幸せに過ごしていることなのだと気がついたのですよ」 アントワネットは腕に抱いたジョゼフの背中を軽くなでながらしみじみと語った。 「王太子殿下も健やかにお育ちでございますし…」 夫人は母子を見つめて思わず目を細めた。 実はあまり宮廷でもうわさにはなっていないが、ジョゼフは体が弱くすぐに熱を出していた。 そのたびアントワネットははらはらと心配げに付き添い、食が細い彼のためにあらゆる食材を工夫して食べさせていた。 「本当に、何事もないのが一番」 アントワネットはルブラン夫人の言う事にうなずきながら、穏やかな日々が再び戻ってきたことに感謝した。 その一方で彼女はここ数年の年月をかけてプチ・トリアノンから見渡せる庭園を作り替え、小川や山、あるいはロマンティックな愛の神殿やあずまやを次々と作り、巨額の予算を投じて自分の世界を着々と拡張していた。 ベルサイユ宮殿の計算し尽くされた幾何学的な庭園と違い、自然を取り入れた王妃の庭はめまぐるしく変わる彼女の気分のように自由に設計され、時には変更を重ねていく。 生き物のように姿を変えていく造園は、アントワネットの新しい趣味として毎日の日課になっていた。 もしオスカルが毎日プチ・トリアノンに日参していたなら、足取りも軽く次から次へと庭園に新しいものを追加し、楽しみを見つけだしているアントワネットの姿をしょっちゅう目撃していたことであろう。 それらの大がかりな改造は、フェルゼンが帰ってきてからも相変わらず続き、むしろ安心したことによって、さらに新しい創造物を増やそうとさえしていた。 かつての危険な賭博や過剰な装飾はさすがにやめていたのだが、プチ・トリアノン周辺を自分の思うままに作り替え、まるで夢のような壮大でエレガントな風景を完成させようとして、相変わらずアントワネットの浪費は続いていた。 特にごく最近では農家を作ることにご執心である。 豪華絢爛なベルサイユ宮殿にあって、農家とは不釣り合いだが、実は当時流行っていた「自然」をモチーフにした、あくまで田舎風にこだわった趣味の農村を彼女は作ろうとしていたのである。 しかし本当の農家では農民たちは飢え、あるいは大農場では地主が富をため込んでいる。 アントワネットは相変わらずそんな現実に目を向けることはないし、彼女が作ろうとしていたのはあくまで虚構の農村に過ぎない。 芝居や踊り、そして壮大な造園。 アントワネットは自分が主役となる世界作りに没頭していたのである。 ただひとつ、民衆という観客のことを置き去りにして。 ********** この年、9月にはパリで正式にイギリスはアメリカの独立を承認し、独立戦争はようやく終結した。 しかし遠い地のことより、人々の関心は空に舞う熱気球へと移り、動物を乗せた実験が成功した後は、いよいよ人が乗り込むのではないかと期待している。 この頃、オスカルは久しぶりにリアンクール公に再会していた。 アントワネットによる一部の貴族への片寄った寵愛ぶりに失望し、宮廷から遠ざかっていた彼だが、この年、父が亡くなり、ベルサイユ宮殿での職務を継ぐことになったと言う。 彼はポリニャック一族を毛嫌いし、ベルサイユ宮殿に伺候することに抵抗を感じていたのだが、幸いにも王妃の取り巻きはほとんどプチ・トリアノンに居て、普段は顔を合わせることもない。 そもそも物静かで生真面目なリアンクール公がアントワネットの目にとまることはなく、王妃に取り入れば将来は安泰とまで言われる宮廷で、めざましい出世もなく地味な存在にとどまっている。 どちらかというと彼は、趣味である天文学についての考察で国王から気に入られ、時折、学問を通じて話し相手になっていた。 つい先日も聞き伝えられる話によれば、今年に入ってから外国で立て続けに大きな火山の噴火があり、その影響で気象などに異変があるのではないかということも話題に出ている。 そういういきさつもあり、彼は国王の衣装長官を任ぜられ、国王の寝室まで深く入り込む権限を得たのである。 相変わらず彼の宮廷嫌いは直りそうもないが、父亡き今は家督を継ぐ身なので、これからはそうそうわがままを言ってはいられないと苦笑する。 又、6月の初実験を成功させた熱気球だが、ついに10月にはパリ郊外で人を乗せて空へと舞い上がっていった。 見学に訪れた国王夫妻はこの出来事を楽しそうに見学し、オスカルもまた、澄みわたる青空に舞い上がる気球を眺め、晴れ晴れとした笑顔で空を振り仰いだ。 「まあ、なんて素晴らしいのでしょう。陛下、陛下、ほらあんなに高く」 アントワネットは夫の腕をつかんで無邪気に喜び、熱気球が上がる様子を子供たちと共に喜んでいる。 オスカルはふと、自分の心に素直なアントワネットについて考えていた。 王妃はいつも明るく、小さな成功に大はしゃぎし、どんな大きな失敗も怖れない。 その力の源はただ単に子供じみた無邪気さだけではない。 自分に誇りを持ち、心のおもむくままに行動し、たとえて痛い目にあったとしても悔いを残さないという強い信念に他ならない。 アントワネットは無意識のうちに自分を大切にし、自尊心も非常に高く、批判などには耳も貸さないのである。 その結果として、彼女は自分の夢をどん欲なまでに実現させている。 オスカルも又、自分に対する自信については揺らぎはない。 だが王妃と大きく違っていたのは、彼女にはたとえ燃えるような感情がわき上がってきても、同時に冷静な理性が働くことだ。 それは物事を深く掘り下げ、最善の行動を取ろうという意志が働く反面、自分の心を押さえつけ、人からは見えない悲しみを内面にため込むことにもなる。 オスカルが年を重ねるごとにアントワネットの人間性に惹かれていったのは、意外なことに彼女が最初に頭を痛めていた、何よりも自分を大事にするという王妃の身勝手な態度なのである。 フェルゼンも又、そんな天真爛漫なアントワネットに惹かれたのであれば、なおさら彼女の自由奔放で自尊心に満ちた精神はオスカルにとって輝く魅力にさえ思われたのである。 さて、気球のようにすんなりと財務面ではなかなか新しい改革は望めなかったが、国王はこの秋、新たにカロンヌという人物を財務長官に任命した。 カロンヌは個人的に怪しい者との交際が取りざたされていたが、疲弊する財政面に思い切った改革がなされるよう、大きな期待を背負って登場してきたのである。 かつてネッケルがつぶやいたように、特権を手放したがらない貴族相手にどのような策があると言うのだろうか。 独立戦争への参戦によって国の負債はふくれあがり、財政は破綻寸前だという。 空へ上る気球のように、オスカルはこれからの未来をただひたすら楽観視することはできなかった。 2005/5/24 up2005/10/11 ※リアンクール公の衣装長官というのは正式名称ではありません。 戻る |