−お知らせ− このお話は史実に基づくものではなく、単なる妄想です。 一部に実在した人物・団体・物体・出来事・地名・思想・制度なども登場していますが、その行動や性格設定・実態・本質及び情景etcは、全て「でっちあげ」です。 それを承知の上、多少のことは目をつぶり、遊び心で読んでみようという方のみ、下へお進み下さい。 -旅立ち- オーストリアの母が亡くなり、しばらく悲しみに暮れていたアントワネットだが、時間の経過と共に悲しみを乗り越え、すくすくと育つマリー・テレーズを膝に抱き、自分の楽しみを色々と計画していた。 母の死を見つめた彼女は、人は生きている間に自分に与えられたものを無駄なく使うべきであると考え始めていた。 マリー・テレーズを身ごもった時、つわりのために計画が止まっていた小劇場も今ではプチ・トリアノンに隣接して建設が始まり、まもなく完成披露が間近に控えている。 完成すればパリで流行の劇を自ら舞台に立って主役を演じ、お友達とお芝居で遊ぶのである。 お披露目の日にはフェルゼン伯も招待している。 以前、スウェーデン竜騎兵の正装を着て見せた彼に対し、今度はアントワネット自身が美しく着飾った姿を彼に見せる番だ。 王妃はその日を指折り数えて待っていた。 ポリニャック夫人も自ら計画に参加したこともあり、劇場の完成を楽しみにしてはしゃいでいる。 あのフェルゼンという男もアントワネットに妙なことを吹き込んだり、昇格をねだるような性格ではないらしい。 実害がない人物を排除する必要はないが、彼が現れてからこっち、王妃の夫への関心が目に見えて無くなってきている。 王妃の養育係としては早くお世継ぎを産んで頂き、さらなる職務に励みたいものだ。 少しの間、フェルゼンに消えて頂く方法は無いだろうか。 彼女はしばし考え込んだ。 ********** オスカルの心は乱れていた。 持てあました気持ちをどうすればいいのかよくわからない。 彼女は自室の鏡に映る自分の顔をしげしげと見つめている。 端正な顔立ちは真剣そのもので、金色の髪が少し乱れて額にかかっている。 人々は彼女を美しい将校と誉め讃え、時に貴婦人方の胸を焦がすほどだという。 しかし女として私は美しいのだろうか。アントワネット様のように蝶のように振る舞い、優雅で優しい女性に見えるのだろうか。 あるいは男性から愛される魅力があるのだろうか。 それらを認めて欲しい気持ちが自分でも信じられぬほど押さえきれない。 そして根拠もないのに確信を持って、自分は非常に美しく、人から愛される資格もあるという希望がどこからともなくわいてくる。 オスカルは気分によって不安になったり自信に満ちたり、落ち着かない。 だがこんなに浮ついた姿をよもや部下の前で見せるわけにはいかない。 彼女は屋敷へ帰ると、たちまち緊張が解けたようにジャルジェ中佐から一人の女へと表情を変えるだ。 それにここのところ食事もあまり進まないせいか、体が引き締まって来ており、顔の輪郭も一回り小さくなったような気がする。 さらに夢見がちな気持ちが気分を高揚させているせいか、思いもよらぬほど職務は好調である。 フェルゼン。 親友だと信じていた男性を、今は胸が苦しくてまともに見ることが出来ない。 毎日が楽しく悲しい、そんな自分をどうしたらいいのか、鏡に映る自分に問いかけてみる。 そこには自分の恋が成就するはずもなく、ただひたすら恋心を忍ぶだけの不安げで美しい女性の顔が写っているだけだ。 どうすれば良いのだろう。 フェルゼンのそばにいたい。切なくて仕方がない。 自分がこれほどまでに、女性としての感情に振り回されるなど思いもよらなかった。 生まれて初めてわき上がる恋の感情に、彼女は戸惑うばかりだ。 この時、オスカルの部屋のドアは少し開いていた。 鏡をのぞき込んでいるだけなので、別段、おかしな姿をしているわけではないが、通りかかったアンドレが足を止めているのに、オスカルは気がつかなかった。 アンドレにしても、楽しみばかりでパリに行っているのではない。 最近のオスカルは異常に美しくなってきていた。 彼女は本気でフェルゼンに恋しているのかも知れない、いやそうに違いないと思うたびに、アンドレは我が身をかきむしりたくなる衝動に駆られる。 自分以外の男にオスカルが心を奪われるだなどと、彼女のそばにいるだけでいたたまれない。 有無を問わず彼女に詰問し、真実を問いただしたあげく、強引に我が物にしてしまうかも知れないという怖ろしい想像が頭にこびりつき、わざと二人きりになるのを避けていたのである。 だが、それも良いことではない。 自分は幼い頃、彼女の騎士になると誓ったのだ。 今日こそはこの激しい思いを封印し、彼女のそばに仕え、いつものおどけたアンドレに戻ろうと決意し、屋敷へ戻ってきたのだ。 だが、彼がドアの間から見たものは、この上なく美しい女主人の横顔だった。 心なしか少し痩せてますます知性的なあごや、鏡を見つめる真剣なまなざしはこの世のものとは思えない。見つめているだけでも、彼女の容姿は涙が出るほど美しい。 騎士ではなく恋人として、又は夫として彼女を抱きしめることが出来るのなら命を投げ出しても良いとさえ思い、アンドレは強く拳を握りしめた。 ********** 「本当に良いのか」 オスカルの顔は青ざめていた。 「構わぬ。それが一番良い方法なのだ」 一方のフェルゼンも顔色がない。 彼はラ・ファイエット候が再びアメリカ独立戦争に出兵するのと同時に、彼の副官として同行するとオスカルに打ち明けたのだ。 すでにラ・ファイエット候は先行してアメリカへ立っており、フェルゼンも彼の後を追いかけてアメリカの東海岸沿いにあるニューポートを目指す。 アメリカ独立戦争に参戦後、現在のところフランスは総勢で八千人ほどの兵士をアメリカへ派兵していた。 志願兵も多いが、中には頭数を揃えるために強制的に兵士となった貧しい農民や、金目当てのならず者も混じっており、戦場が決して安全な地ではないことは明らかだ。 フェルゼンにもしもの事があればと思うと、普段は滅多に他人に干渉しないオスカルなのだが、無駄と知りつつ引き留めてしまう。 たとえ戦地でもいい、逃げ出したいと思ったのは自分の方なのだ。 だが、そこへ彼が行くとなると話は別である。そのような遠いところへ彼が自らの意志で去ってしまうことは心が引き裂かれるように痛い。 それにまず、彼が危険な目に遭うのではないかと気が気ではない。 「アントワネット様がどれほど落胆されることか、あなたは承知なのか」 …実は落胆するのは王妃だけではないのだが。 確かに、以前のようにフェルゼンとアントワネットを取り巻く環境は再び危ういものになっており、宮廷の中でも二人の仲を怪しむうわさが三年前のように再び流れはじめていた。 又、それらの内容は日増しに過激になってきている。 「アントワネット様はマリー・テレーズ様をお産みになり、ますますお美しい。私は心よりあの方に仕えたいと心に誓っているのだが、今再び前のようにあらぬうわさが広まることが心配だ。はっきりとはおっしゃられないが、ポリニャック夫人の話を聞くところによると、私が宮廷に伺候し始めてからこちら、アントワネット様は国王陛下と疎遠になられているらしい」 「……」 ポリニャック夫人がどういう了見でフェルゼンに話をしたのかはわからない。 多分、養育係としての意地もあるだろうが、よもや彼が戦地に旅立つことまでは想定外だろう。 だが、夫であるルイ十六世を拒絶するほどフェルゼンにかまっているアントワネットを、どうにか軌道修正したいと思うのはポリニャック夫人だけではないはずだ。 オスカルにしても、王妃とフェルゼンがどれほど親密な仲であるのか、あるいは二人の間でどれほど深い話がなされているのか、考えたくもなかったし、もう推測する気持ちの余裕もなかった。 ただ、フェルゼンのアメリカ行きに戸惑い、胸が苦しいだけ。 「それに今しばらくあの方との間に距離を置き、私自身がこれからどうすべきか、もう一度考え直したいのだ。いや、実はもうアメリカへ行くことは去年のうちから考えていたのだ。ただ思い切って実行することが出来ず今になってしまった」 フェルゼンも悩んでいる。 騎士の仮面をかぶり、誠実な彼も又、自分の感情に逆らえずに苦しんでいるのだと、オスカルはうすうす気がついていた。 だが、出来るだけそうであって欲しくない気持ちが彼女を支配し、今まで見て見ぬふりを決め込んでいた。 「フェルゼン、それほどまでにアントワネット様のことを…」 今も尚、こういう事をはっきりと聞くべきなのかどうか、戸惑いは隠せない。 「…この場でそのような恐れ多いことなど、軽々しく言えるはずがない。私に出来ることはあの方に向ける気持ちを戦いに捧げることのみだ」 フェルゼンは絞り出すように答えた。 オスカルははっきりと悟った。 片恋の苦しみに身を焦がす彼女とは違い、決して結ばれぬ愛に苦しむフェルゼンも又、深い苦悩の中にいる。 ポリニャック夫人の一言は明らかに彼の決意を促す引き金となったのだろう。 あるいは王妃に対する気持ちが忠誠心であるのなら、態度で示してみろと言わんばかりの無責任な陰口を彼がどこかで耳にしたのかも知れない。 宮廷人は平気な顔で、本人に聞こえよがしの皮肉を口にする。 それもたいていの場合は相手を牽制するために綿密に計算されている。 いちいち気にしていても仕方がないが、かといって問題視された事を放置していると、空気が読めない奴だと言われ、さらに批判の的になる。 彼はラ・ファイエット候のように自らの力を試し、使命感に燃えて行くのではない。 遠い異国の地で果てることも視野に入れ、アントワネットのために良かれとアメリカ行きを決意したのだ。 自分なりに迷路の出口を求めて、意志を固めたフェルゼンを誰が止められようか。 彼のアントワネットに向ける愛情はオスカルにとっても計り知れないほど深いものだった。 そんな彼を男として尊敬する気持ちと、その反面、オスカルのはかない望みが音を立てて崩れていく失望感。 去年の暮れ、フェルゼンが竜騎兵の正装を見せに伺候したのは、アメリカ行きを決意し、アントワネットに最後になるかも知れない勇姿を見せに来ていたとは、よもやオスカルも気づきはしなかった。 「わかった。私が馬車の手配をしよう。ちょうど良いところで出てきてくれ」 オスカルはこの日初めてフェルゼンをまっすぐに見つめた。 もしかして今日が今生の別れということもあり得る。 そうなれば切ない想いを打ち明けることもなく、胸に抱いたまま私はどうすれば良いのだろうと、オスカルの胸は張り裂けそうだった。 せめてこの場で、一瞬でいいから抱きしめて欲しいと思うのだが、フェルゼンは命をかけるほどにアントワネットに焦がれている。 オスカルに入り込む余地など見あたらない。 だが、もう一人の自分は彼がアメリカに行くというのなら、最後に自分も恥ずかしくない姿を見せておきたいと、くじけそうな彼女を叱咤する。 「何、ひっそり馬車を出すことなど別段難しいことではない。私に任せておけ」 オスカルはいつもの冷静な態度で頭を上げ、自信ありげな顔を作った。 「よし、頼んだぞ、オスカル」 フェルゼンはいつものさわやかな笑顔を彼女に返した。 折しも小劇場では大きな拍手がわき上がり、楽しげな音楽が聞こえはじめた。 まもなく舞台ではアントワネット主演の劇が始まり、観客たちは拍手喝采で舞台に立つ王妃を口々に賞賛した。 元々、役者の全てが素人の集まりである。 彼らの演技は感動するほどのものではないが、当時流行している劇の上演はこの上なく楽しい催しだった。 こけら落としである今夜ばかりは、いつも無視されがちな国王も招かれ、珍しく隣の貴婦人と談笑している。 観劇に招待された人々は今からここで、ひとときの夢心地を味わうのだ。 彼らはこれほどまでに洗練された宮廷は、フランス以外のどこにもあるはずがないとばかりに、栄華に酔いしれている。 アントワネットと親しい宮廷貴族たちは、優美に作られた小劇場のすばらしさを堪能し、この日のために用意された出演者の豪華な衣装と舞台設備に感嘆の声を上げていた。 その最中、フェルゼンが観客席からそっと消えたことを気付く者はいなかった。 外では出来るだけ音を立てずに馬を待たせていたオスカルが無言で彼を馬車に乗せ、ベルサイユ宮殿を通り過ぎパリへと向かう。 セーヌ沿いに待たせてあるフェルゼンの馬車に並べて停車すると、彼は静かに降りてきた。 「私は必ず帰ってくる。それまでアントワネット様のことをよろしくお願いする」 フェルゼンはオスカルに手を差し出した。 「うむ。それは私にまかせたまえ」 オスカルも落ち着いた様子で握手を交わす。 そばにいることだけではなく、逃げ出すことも又、本当に愛情なのだろうか。オスカルは言葉とは裏腹に考えていた。 「フェルゼン、あなたのご武運をお祈りする。そして無事な帰還をアントワネット様同様、お待ち申し上げる」 オスカルは彼に向き直り、きびすを揃えて敬礼した。 「ありがとう、オスカル。では、行ってくる」 彼もさわやかに敬礼を返し、待たせていた馬車に乗り込んだ。 決意して旅立つ男の背中は切なく美しい。 フェルゼンの馬車が見えなくなるのを見届けて、オスカルはあふれる涙が頬を伝うのを拭いもせずに消えた馬車の方角を見つめていた。 私はあなたが好きだ。 旅立つ場面で恋人たちが別れを惜しむように、私を抱きしめてくれたらどれほど嬉しかっただろう。 出来るものならあなたの心が欲しい、そして振り向いて欲しいとも思う。 しかし、この想いは届かない。 だからこそ、絶対に生きて帰って来て欲しい、とオスカルは心から願う。 あなたの潔い実に男らしい振る舞いと考え方は、全てにおいて私が理想としている男としての生き方だ。 私は男として育ち、あなたのような男性になれたらいいのにと憧れてきた。 そして女としての私は、そのようなあなたを我が物にしたいと密かに熱望している。 フェルゼンへの想いはもうはっきりと自覚していた。 あなたを愛している。 オスカルはその言葉をかみしめ、悲しみがわき上がるのに任せて、いつまでも川べりに立ちつくしていた。 2005/6/22/ up2005/8/9/ 戻る |