森の異世界 辺り一面は白い霧が立ち込めていた。 そろそろ夕刻だろうか、しかし、時を知らせるものは何もない。 「馴れた道だ、どこかに出るだろう」 アンドレは言う。 だがな、と、オスカル。 どうもいつもと違うのだ。ここは子供の頃から知っている森だ。だが、こんなに深い霧が立ち込めるなんて今までなかったし、それにこれだけ歩いて出られないなんて、 お ・ か ・ し ・ い 。 何より、オスカルの愛馬がこの雰囲気に「おびえ」ている。何となくいつもと違うのだ。 「何だか同じところをずっと回ってやしないか、アンドレ」 「……」 彼は答えられなかった。やはり同じことを思っていたからだ。 日没が迫っている。早く森を抜けなければ、真っ暗では進むこともできない。次第に焦りが二人を襲う。 ぽつりぽつりそんな不安を打ち明けはじめた時、どこからともなく水の流れの音が聞こえた。 「のどが渇いたな…」 「…水の音がしないか」 「どこかに川でも…」 「行ってみよう」 音のする方へ少し進むと、前の森が少し開けてきた。木もまばらになり、ゆるい下り坂になっている。目の前に川があるらしいが、その全容は霧がひどくてよく見えない。 「馬は置いて行くしかないな」 坂はだんだん急になっていた。これ以上馬に乗っていることはできない。 「まっすぐ行くだけだしな。それに、水を飲んだらそのまままっすぐ帰ればいいんだから」 アンドレはさっさと馬からおり、手近な木の枝に手綱をかけた。 「…そうだな」 オスカルも一抹の不安を感じながら、彼の言うとおりだと思った。のどは渇いているのだ。 二人が手探りでまっすぐ下りて行った先には、冷たい水が流れる小川があった。そして水を飲んでから同じ所を通って、馬のいる元の場所へ戻ってきたはずだった。 「…馬がいないぞ、アンドレ」 「でも、確かにここだぜ。オスカル」 アンドレは手綱をかけた枝振りを覚えていたと言う。もし馬が暴れていれば音もしていよう。第一、慣れたおとなしい馬たちである。 何だか信じられない事が起きているようだった。次第に辺りは暗くなっている。 この後の展開はもう明らかだった。 そう、森の迷子である。 不気味な鳥の鳴き声が聞こえていた。森の木が時折、風を受けて重く低い声で話をしているように鳴る。 「もうすぐ日暮れだな」 オスカルは暗くなる空を見た。と言っても、辺りは夕闇の青をした霧一色である。このままはぐれたら、取り返しがつかない。彼女はアンドレの真横に、袖がすれ合うほどぴったり並んで歩いた。 「なあ、オスカル。手をつなごう」 アンドレは真剣に言った。 「えっ?手を…か?」 「そうだ、お互いはぐれないように。できたらロープでくくりつけたいんだが、そんなものないしな」 「子供じゃないんだぞ、私たちは」 アンドレの案はオスカルにも最良だと思えた。だが、いまさら手をつなぐだなんて子供じぁあるまいし、照れもある。 「そんなこと言ってる場合じゃないだろ、ほら」 アンドレは手を差し出した。 「ん…あ、じゃあ、私が左に行こう、お前は左側の視界に弱いから…」 オスカルはいかにも不承不承…のように、自分の右手を彼の左手につないだ。 不思議と違和感はない。それもそうだろう、子供の頃はあたりまえの事だったのだから。 しばらく無言が続いていた。 アンドレの手のひらは子供の頃と違って、オスカルの手を包み込むように大きかった。誰かに守られたい。…いつも心の片隅に追いやっているそんな感情がふと、沸き出してくる。 だが、そんな感傷にひたっていたいオスカルではない。彼女の現実は、衛兵隊中隊の隊長なのだ。それでなくとも、彼女はいつも強くあろうとしていたし、「男」として振る舞わなければならないのに。 「みんなに見せられないな、こんな所」 「誰も見てないじゃないか」 「いや、誰かに見られているような気がするんだ」 オスカルはとっさだが、そんな気がした。 「やめろよ、オスカル。気味が悪いぜ」 アンドレは思わずオスカルの手を強く握り締めた。 「…あっ」 指が痛い。いや、それだけではない、目の前に誰かがいる! 人影はぼんやりした輪郭を次第にはっきりさせながら近づいてくる。 黒い髪、そして黒いドレス。その黒い影はオスカルもアンドレもよく知っている人物だった。 「あんたたち、こんな所で何やってんだい」 かすれたような、それでいて鋭い声が響いた。 「ジャンヌ!」 二人は一斉に叫んだ。 「ま、いいさ。あたしには関係ないからね。でも相変わらず仲がいいんだね。手なんかつないじゃってさ、アッハハハ…!」 ジャンヌは意地悪く笑った。思わず、つないだ手を放すオスカル。 「ここはどこなんだ、ジャンヌ」 オスカルは彼女の笑い声を打ち消すように叫んだ。 …本当に聞きたかったのは、おまえは死んだはずだ…という問いなのだが、そのことはなぜか聞けない。これは夢なのだろうか。 「どこでもないさ。ただ、ここに来た者は自分の答えを見つけるまで迷い続けるのさ」 「答えだって??」 「そう、あたしも自分のしたことにゃ、全然後悔なんかしちゃいないさ。だけどね、あたしは妹の事を考えると、ここに来ちまうんだよ」 ジャンヌの顔が曇った。 ロザリーのどこが心配なんだ、とオスカルは思った。今は夫のベルナールと共に幸せに暮らしているはずだ。 「ふん。そのベルナールがあたしには心配なんだよ。一本気な男って奴は時折、家庭をかえりみないもんさ」 「それなら心配するな。俺たちがロザリーを守るよ」 アンドレは面倒見の良い男である。彼は本心でそう言った。 「…ふふっ、それは長生きする人間がいう言葉だよ」 ジャンヌは嘲笑とも哀れみとも取れる顔をして笑ったかと思うと、再び霧の中へ消えて行った。 「何だったんだ、あれ」 アンドレは目をしばたいている。 「…もしかして、ここは、違う世界なんじゃないのか、アンドレ」 オスカルはそう言うしかなかった。 「……」 再び沈黙。だが、どちらからともつなぐ手。 「まただ、誰か来る」 オスカルはささやいた。 カサカサというドレスの衣擦の音がし、軽い足音が走って来る。 「早く逃げなくっちゃ…」 まだ幼い、あどけない面影の少女は、オスカルたちとすれ違いざま、そう言った。 「シャルロット!」 オスカルは少女の名を呼んだ。 「誰、私を呼ぶのは?」 シャルロットは振り向き、キョロキョロとせわしく首を振った。 どうやら彼女にはオスカルたちが見えていない。 だが、見えない方がいいのかも知れない。アンドレはオスカルの手を引いた。 「シャルロット…」 生きている者たちを見ることは、彼女につらい事を思い出させるに違いない…アンドレは思った。 再び辺りからは人の気配が消え、夜の闇が二人を包み始めていた。 この異世界から出る方法はまだ見つからない。だが、途方に暮れながらも、出口を求めて歩き続けるしかない。 やがてまた前方に見えてくる人影。 「ディアンヌ」 重苦しい雰囲気が続く中、不意にオスカルは叫んだ。 闇の中から現れたのは、疲れた面持ちのディアンヌだった。 「オスカル様、どうしてこのような所へ?ここはあなたがたの来る所ではありません…」 「いや、いつのまにかここに来てしまったんだ。ディアンヌ、どこに出口があるか知らないか」 オスカルはうつろなディアンヌの瞳を見つめながら言った。 「…私は何も悪いことはしてないわ、なのに、どうしてあの人は…」 ディアンヌはもうオスカルの言葉を聞いていない。自分の悲しみの檻の中に閉じこもってしまったようだ。 「ディアンヌ、アランは君の幸せを誰よりも願っていた。だからそんなに悲しまないでくれ」 「ああ…兄さん、兄さん」 彼女はアンドレの言葉に、思わずポロポロと涙をこぼした。 「アランのように、お前を決して裏切らない人間は今もいるんだよ、ディアンヌ。お前の事を思って、今も泣いている男がいるんだ」 「オスカル様、私は…どうすればよかったのでしょうか…」 そう言うと、彼女はわっと声を上げて泣き叫びながら走り去った。 「答えが見つかるまで、ここで迷い続ける…」 オスカルはジャンヌの言葉を思い出していた。 深い霧と闇は未だあけることもない。 二人はこれ以上、動くことをやめ、太い幹の根元に腰掛けた。 「私たちにとって、答えって何だろうな」 「それは職務に忠実で、民衆を守ることだろう」 「わかってる、そうじゃなくて…」 オスカルには彼とのことについて、何か聞いておかなければならないような気がしていた。そう、ずっと前から。 「オスカル、俺の答えはいつも同じさ」 「…」 彼女は沈黙で彼を促した。その青い瞳は彼を凝視している。 アンドレは彼女の白い指を両手で包み込んだ。オスカルのまなざしがふと、優しくなる。 「私たちは何に迷い、何の答えを求めてここをさまよっているんだろう、答えてくれ、アンドレ。それともお前には迷いはないのか」 アンドレはいつものように笑った。 「俺は、お前のことが何より大切だ。いつも共にありたいと思っているし、お前を守りたいと思っている。でもこんなこと、言ってしまうと嘘のように聞こえるから…できるだけ言わないように…って思っていたんだ…」 少し気まずいのか彼は口ごもった。 「私は……」 「俺はお前を信じている」 その言葉がウソではないことは、オスカル自身がよく知っていることだった。 ただ、当たり前すぎて、いつも近くに居すぎて、普段は実感することすらない。 だが今、こうやって迷う森の中で二人きり、お互いの気持ちがかよい合う。 暖かい、それでいて胸が痛い。 心を解き放とうとすると、次第に熱いものがこみ上げてくる。 「私も…お前を信じている…」 オスカルの頬に一筋、涙が流れた。 そのとたん、あたりは白い光で満たされ、足下が何かにすくい上げられたように浮き上がった。長いような、一瞬のようなまばゆい光の感覚。 そうしてやがて光がすっかりひいた時、二人は夕暮れの森のはずれにいた。 馬たちも何事もなかったかのように道ばたの草をはんでいる。 「な、迷いがなければ、こんなもんさ」 アンドレはこうなることがわかっていたかのように言う。 「………」 森は時々、心迷う者と同調して深い闇に同調するのかも知れない。 迷子になっていたのは私も心だったのではないか、とオスカルははたと気が付く。 …そう、アンドレは私の迷いにさえ、共にあろうとしてくれたのだ。 『信じている』 その意味の重さが痛いほど伝わってくる。 彼のさりげない言葉こそ、異世界から出る魔法の言葉だったのかも知れないと、オスカルは思う。 すでに夕闇は夜の闇へと変わろうとしていた。 おわり 書いた時期:不明 2000.12月頃最終保存 up2004/12/ 戻る |