注※
このお話の全体に渡って、旧約聖書の一部を引用しました。
それはあくまで旧約聖書の「詩的な要素」が美しいので、お話の合間に組み込んだのであり、特定の信仰・信条を軽く扱っているのでも押しつけているのでもないことを前もって申し上げておきます。念のため一言書き。(^^)





−ホザンナ−
−とりとめのない心の旅−



僕は得も言えぬ気がかりをかかえていた。
何が原因なのかがはっきりしない。
僕の心は今日の空のようにどんよりと曇り、太陽を見失っているようだった。



『恵み深い主に感謝せよ。 慈しみはとこしえに』
詩篇118-1



雨の午後、オスカルは雨だれが伝い落ちる窓の外をぼんやり見ていた。

流れる水滴は不規則なようでいてなぜか自然に調和しながら落ちていく。
これも神様がお造りになった創造物の不思議なのだろうか。
彼女は考えるともなくそんなことを頭に浮かべていた。


今日はどうにも集中力が欠けている。家庭教師は彼女の様子を見てうすうす感じていた。
どうせ、勉強の後で父親相手のチェスの手でも考えているのだろう。


彼はぱたんと文法の教科書を閉じ、オスカルに詩篇の暗記を命じた。
不意を突かれたオスカルは、はたと家庭教師に向き直ったかと思うと、ドア際の椅子に腰掛けていたアンドレに有無を言わさぬ目つきで「お前は友達だよな」と一言だけ言った。



「では、二人とも仲良く暗記すること。えーっと、詩篇の…そう…118篇でお願いいたしましょう。では今日はこれまで」
家庭教師は二人に宿題を残してそそくさと帰っていった。




アンドレはきょとんとしていたが、巻き込まれてしまったと気が付いたときにはもう遅い。
オスカルに言われては仕方ないとばかりに、彼は部屋から聖書を持ってきて、気の進まない様子でページをめくり始めた。

場所を変えて二人はサンルームで聖書を繰りながらブツブツとつぶやいてみる。
時には立ったり座ったりして何度も繰り返す。

詩篇はミサでもよく聞くのだが、暗記となると全文を正しく覚えなくてはならない。
だがさほど長くはないので、難しい宿題ではない。



『苦難のはざまから主を呼び求めると主は答えてわたしを解き放たれた。主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなしえよう。主はわたしの味方、助けとなってわたしを憎む者らを支配させてくださる』
詩篇118-5・6・7



「ふぅ…」
アンドレは大きくため息をついた。

「何だ、もう根を上げるのか」
オスカルは横目でちらりと見た。
アンドレはさぼと暗記が苦手ではない。どちらかと言えば根気もあるし、集中すると声をかけても気付かないほどなので、詩篇の数節などさほど時間はかからないと思えたのだが。


「あ、いや、そういうんじゃないけど、118篇は……母さんのお葬式の時に……」
アンドレは口の中でモゴモゴと……
オスカルは禁句だったのだろうかとしばし黙っている。


「…神父様が朗読されていて……今もあの時の事を思い出すんだ」
言いにくそうに言った。




そう言えばお葬式でも詩篇の朗読をする事はある。
ひとりぼっちになり悲しみに沈む彼に、神への賛歌はつらい思い出になっているのかも知れない。

そんな心境の時に、だからこそ神様を讃えるんだよなどと聖人君子のような言葉は、オスカルとて下手に格好をつけすぎて言えそうもない。
何より、アンドレの悲しい思い出を聞くのは彼女もつらい。




「そうなのか、じゃあ……先生に言って別のところに変えてもらおう」
「いや、いいよオスカル」
「全然、いいことなんてない。私が変えると言ったら変えるんだ!じゃ119篇」
オスカルは無理に変更してしまった。



『人間に頼らず、主を避けどころとしよう。君侯に頼らず、主を避けどころとしよう。激しく攻められて倒れそうになったわたしを主は助けてくださった。』
詩篇118-8・9・13



我を通すようで実は気を遣ってくれた彼女にアンドレが少しばかり感動したのは言うまでもない。
ただ、彼の気がかりは詩篇の暗記より前からのことで、今も尚、続いていた。



お屋敷の使用人ともなるとなかなかまとまった休みが欲しいなどと自分から切り出しにくい。
まして普段の時は親の病気や身内の葬式でもない限り、里に帰ることはまずない。

たとえ帰る許しをもらえたとしても、一度その仕事を離れると誰か別の者が補充される。うかうかしているとそこでの仕事を失うのだ。


召使いをかかえる立場から言うと、使用人が怠けることを嫌うものである。
里へ帰ると言っても本当かどうかはわかったものではない。

その点、ジャルジェ夫人は他の貴族たちから使用人をきちんと管理していると評価されていた。

その実、彼女は使用人の自由についてはさほど厳しくないのである。


里の身内に何かあると早く帰ることをすすめたり、ちょっとしたお見舞いの品など気配りも忘れない。なので、かえって使用人たちはジャルジェ家に情が移り、働きも良い。
万が一働きが悪くても、気の利いた召使いが手厳しく教育する。

さらに里に帰ってもすぐに屋敷が恋しくて戻ってきてしまったり、もし当人が年老いてもその子供や身内が召使いの見習いでやってきて、今までの恩義に応えようと必要以上に仕えてくれるのだ。



アンドレの場合もほぼばあやの身内という点で確実な人選だったのである。
ただし彼には両親はいない。

故郷に帰る家はないし、唯一の身内のばあやは屋敷にいるし、生まれ育った村に帰るきっかけなどほぼない。
それにたとえ帰ったとしても、待つ人はいないではないか。
両親の墓は荒れてはいないだろうかと気にはなるが、彼のふるさとはばあやの生まれ育ったところではなく、たまたま両親が居着いたところなので、縁者もいないので情報も入ってこない。



故郷のどこかにつながっていたいと思う気持ちが募ってくる。じゃあどうすればいいのか。


『両親のお墓がどうなっているか心配です。仕事があり、お墓参りもなかなか行けないので、せめてお墓の土を一握りでいいので送って欲しいです』
彼は故郷の教会に宛てて短くしたためた手紙を出し、根気よく待っていると神父様からようやく返事が入った。



『そちらに向かった行商人に約束の物を届けてくれるよう頼んだ』との事だった。
行商人はパリからほど近い町の教会に立ち寄るので、そこの神父様に手渡っているらしい。


半日ほどで戻れるので、ばあやと彼は事情を説明し、馬車で出かける許しを得た。
ばあやはそんなつまらないことでお屋敷にご迷惑をかけるなんてと、孫に言いたいところだったが、話を聞いたジャルジェ夫人が涙ぐんでしまったため、つい言いそびれてしまった。



『主はわたしの砦、わたしの歌。主はわたしの救いとなってくださった』
詩篇118-14



オスカルは元気よく送り出してくれたが、「しばらく帰ってこなくていいぞ、私も静かで助かるからな」とすました様子で言い放った。

あまのじゃくな彼女はいつもアンドレには言いたい放題なのだが、これも彼女流の気配りなのだと彼もわかっている。





二人を乗せた馬車は郊外に抜け、のどかな景色に変わりはじめていた。

祖母とはあまり両親の話をしていない。祖母も忙しい人だし、暗い話は好まない。
それに屋敷では人目もあるし、個人的な話は避けているのか思い出話などはしんみり出てきたこともない。



ひょっとしておばあちゃんもあまり思い出したくないのかな、とアンドレは前々から思っていた。
だけど、聞いてみよう。こんな時なのだから。

「父さんと母さんはどうやって知り合ったんだろう」
アンドレはさりげなく切り出した。

「うん、それはね、お前の父さんが母さんのお屋敷の修理に行ったときからだろうね」
彼の父は大工だった。

「おばあちゃんはあまり知らないのかい?」

「あの子は何にも言わない子でね、お金持ちのお嬢様のことが好きになっただなんて口が裂けても言えなかったんだろうよ。うちは大した財産もない家だったからね」
ばあやは間を取るように、外した眼鏡をエプロンでそっと拭いた。


「じゃ、結婚するときは反対されてたの?」
「お前には今まではっきりとは言ってなかったけれど、二人は駆け落ちみたいなことをしでかしたんだよ」

「はぁ……」
アンドレは初めて聞く話に驚いた。おだやかで物静かな母親の意外な一面を知ってしまった気がする。

「それからあの子たちもどこか住みやすいところを探すんだと言って旅に出てしまって、遠縁を訪ね歩いてたどり着いたのがお前の生まれたところなんだよ」
ばあやは思ったほど嫌そうな様子もなく、淡々と話した。


彼の両親が色々と苦労したのを言いたくないと言うよりは、駆け落ちをしたという風なことを子供相手に聞かせて良いものかどうかちょっと迷った感じだ。

実際は陰からそっと息子夫婦に仕送りもしていたのだが、そこのところは黙っておこうとばあやは思った。




だがアンドレは母の荒れた手や、質素な生活ぶりしか記憶にない。
深窓のお嬢様がそんな貧乏な暮らしに満足していたのだろうか。


「母さんは父さんのことを恨んでた?」
「何でそんな事を聞くんだよ。好きで一緒になったんだから多少の貧乏は耐えられたんじゃないか」

「じゃ、母さんは神様のことを恨んでた?」
「何てバカな事を聞くんだい、この子は!」
ばあやはアンドレ頭をコツンと叩いた。


「いてっ」
「神様を恨むなんて……口に出すのも怖ろしいよ。何で神様を恨まなきゃいけないんだい?」
「だって父さんも病気で死んでしまったし、母さんも生活は苦しそうだったじゃないか。僕が何とか働いて母さんを楽にしてあげるんだと思ってたのに、その母さんも病気になって……」
アンドレは涙声になっていた。


やりどころのない悲しみと怒りを感じる。



僕は何にも助けてあげられなかった。
あんなに教会に通って、いいことをたくさんしていた母さんが、どうして病気になって死ななきゃいけなかったんだろう。





「うん、そうだねぇ。神様は時々気まぐれなことをなさるよね。だけど、それが神様から与えられた試練なんだよ」
「俺、もらうんだったら試練じゃなくてもっと良いものが欲しいや」

「こらっ」
今度はゴツンと叩かれた。





『御救いを喜び歌う声が主に従う人の天幕に響く。主の右の手は高く上がり主の右の手は御力を示す。死ぬことなく、生き長らえて主の御業を語り伝えよう』
詩篇118-15・16・17



ほどなく目的の町に着いた二人はすぐに教会に行き、神父様から小さな包みを受け取った。
ただの土にすぎないが、これでやっと故郷とつながったような気がする。

「良かったですね。村の神父もあなたのことを気にしておられました。お墓のことは大丈夫ですよ。村の人たちが善意できれいにして下さってるそうですから」
教会の神父はアンドレの肩に手を置き、安心させるように言った。

「ありがとうございます、神父様。父さんと母さんは天国に帰っていったけど、お墓は僕にとっては大事な場所なので…」


そう言う自分が何だか変なことを言っているような気がする。お墓は故郷の家でも、両親の居所でもないのに。



僕の目的はこれで本当におしまいだったのだろうか。何となくまだ落ち着かない。



「人には行くところや帰るところが必要なんですよ。あなたのご両親も地上での勤めを果たして帰るべきところに帰って行かれたのです。ちょっと早すぎましたが…。だけれど、あなたがご両親の事をいつも気に掛けていることは、きっとお二人とも天国でお喜びでしょう」


「何だか変ですよね、神父様。僕の居場所ってどこなんだろうって時々思っちゃうなんて」
ここ数年のあいだに色々なことがめまぐるしく起きた。



父さんが死んだ後、すぐに追いかけるように母さんが死んで、それからおばあちゃんに引き取られて、屋敷の生活に馴染もうと一生懸命になって……。




忙しくて今まで考えられなかった。
僕はどこから来て、どこに行こうとしているのだろう。




「あなたは今はおばあさんに引き取られて新しい生活をはじめているそうですね」
神父はちょっとした事情は聞いているらしい。

「そうです、お屋敷の旦那様も奥様も僕を大事にしてくれています」
それにオスカルもいるし。

「あなたには帰るところがありますね。それは神様の贈り物なのですよ」
神父様はアンドレの気になっていることをきちんと整理して言って聞かせてくれているようだった。

「神父様、僕にはよくわからないんです。母さんは神様を恨まなかったんでしょうか?」
「これっ、この子ったら何て事を聞くんだい」
ばあやは赤くなってうろたえた。


「ははは…、おばあさん、そう怒らないであげて下さい。彼がそう思うのは当然でしょう。誰だって生きていたら不公平を感じることはいくらでもありますから」
神父はそう言うとコホンと咳払いをした。


「だけど神様はあなたという存在をお二人にお与えになりました。あなたはご両親の息子として生まれて幸せでしたか」
「うん、それはそうだけど…」

「それも神様からの贈り物です」
「贈り物?」

「神様からの贈り物を有り難いと、最後の瞬間まで思える人は幸せな人なのですよ」
「よくわかんないや!」
アンドレは首を横に振った。





『主はわたしを厳しく懲らしめられたが死に渡すことはなさらなかった。正義の城門を開けわたしは入って主に感謝しよう』
詩篇118-18・19



贈り物と言うんだったら、僕の場合はオスカルと出会ったことだな。やっぱり。


オスカルはお嬢様だし、立派なご両親がいるし、だけど僕みたいに気楽じゃない。
人には生まれもって背負った運命があるからだ。


「どうだ、これが私の自慢の息子だ」
ジャルジェ将軍が自慢げにオスカルを紹介する。
オスカルも誇らしげに胸を張る。

誇らしいのはみんなに立派だと認められたからじゃない。
まず、尊敬してやまない父親に愛されたからだ。



オスカルは父の厳しい教育にも耐え、負けん気を出して剣の練習にも励んでいる。
やがてはジャルジェ家を背負う覚悟を今のうちから自分にたたき込んでいるのだ。



なんのためだ?アンドレ。

それはオスカルが両親を愛しているからじゃないのか?




それだけじゃない。使用人もジャルジェ家にかかわる人たちも、オスカルが立派に跡取りとなってジャルジェ家を繁栄させなくては成り立たない。

彼女には沢山の責任を背負う力が必要なのだ。



オスカルは彼らを愛することで彼らから愛される。
彼女の負った責任はその瞬間、重い荷物から強い力へと変わるのだ。





そうか、少しわかってきたような気がするぞ。
僕が生まれて父さんも母さんも喜んでくれたんだろうか、いやきっと喜んだに違いないよ。


たとえ曇りの日でも太陽は雲の上にある。雨の日でも暖かい太陽がちゃんと昇っていることを忘れなければいいのだ。



夜明けと共に太陽は必ず昇ってくる。
雨は恵みをもたらす。
月の光は心に優しく染みいる。

これらは全て神様のなさっていることなんだろうな。
僕たちは神様の手のひらの上に包まれているんだ。




彼の考えは果てしなく広がっていく。




『これは主の城門、主に従う人々はここを入る』
詩篇118-20



馬車がジャルジェ家に近付くにつれ、アンドレは顔を輝かせた。
オスカルのいるお屋敷へ帰るんだ。俺の帰る家はここなのだから。






僕は自分の居所がどこなのか知りたかっただけなんだよ、きっと。






『人には行くところや帰るところが必要なんだよ』
神父様の言われた言葉だ。


行くところがあるって、なんて素晴らしいんだろう。
帰るところがあるって、なんて素晴らしいんだろう。
母さんも自分に与えられた時間を生きて、神様のところに帰っていったんだね。
僕もいつか帰るのだろうけれど、今はあのお屋敷が僕の帰るところなんだ。




やっと、やっとだ。
ここしばらくの気がかりが晴れていくような気がする。




屋敷が見えるほどのところへ来ると、オスカルが愛馬に乗って迎えに来てくれていた。
アンドレは馬車から身を乗り出し手を振った。

「遅いじゃないか、アンドレ。昼過ぎには帰るって言ってただろう!」
オスカルは少し怒ったふうにかん高い声で怒鳴っている。いや、笑っているのだろうか。

燃えるような碧い瞳、夕日に彼女の金色の髪がまぶしく輝いている。
オスカルは神様からの贈り物なんだよな、きっと。




『わたしはあなたに感謝をささげる。あなたは答え、救いを与えてくださった。家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。これは主の御業、わたしたちの目には驚くべきこと』
詩篇118-21・22・23



母さん。
あんなにも早く死んでしまったけれど、精一杯生きたことも全部無駄じゃなかったんだよね。運命は巡り巡って今、僕はオスカルに出会うことが出来たんだから。



『今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう』
詩篇118-24



母さん、今はまだあなたのところには帰れない。
神様が俺の行く道をきっと照らして下さるのだから。そう、今日も明日もその先も。



『どうか主よ、わたしたちに救いを(ホザンナ)。どうか主よ、わたしたちに栄えを。 祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。』
詩篇118-25・26



やっと少し、ほんの少しだけれど……わかったような気がするよ。母さんが神様を愛していたそのわけを。



『主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。わたしの神よ、あなたをあがめる。 恵み深い主に感謝せよ。 慈しみはとこしえに』
詩篇118-27・28・29





天のいと高きところにホザンナ。


僕はこれから何度でもその言葉を繰り返す。何度も繰り返して学んでいく。

祝福の言葉よ、天に届け。
天国の父さんと母さんに!




おわり

2005/2/2


『』カッコ内の注釈のあるものは旧約・詩篇118より抜粋・引用。


up/2005/3/3/

戻る