−夜明け−


その大きな商家の屋敷では夜半までこうこうと明かりがついていた。
仲のよい家族が時が過ぎるのを忘れて団らんしていたのではない。

召使いたちがびくびくと見守る中、主人とその娘が激しい言い争いをしていたのである。




大騒動の後、娘は自分の部屋に駆け込み内から鍵を掛けた。
頬は興奮のために紅潮し、父親に掴まれた髪は滑稽なまでに乱れている。



捨てられるのではない私が捨てるのだと、彼女は涙混じりに自分の旅行カバンに大事なものを詰め始めた。

こんな時に母が生きていてくれたらどんなに心強かっただろう。母なら私のことを理解してくれていたのに。
亡き母を思うと彼女はつい悔し涙があふれた。




彼女が恋をした相手は貧しい家の男だった。
父は猛反対し、彼女は絶対に譲らなかった。




父親は自分の娘を貴族のところか、裕福な取引相手のところに嫁がせたかったらしい。
お前のためだと言われて彼女はそれは違うと心の中で叫んだ。

確かに生活が安定したところに嫁ぐことは親としても安心だろう。
しかしそれだけの事ではない。父にとって相手の男は誰でもよかった。ただ後ろ盾となる保証が欲しかっただけなのだ。


父の言う幸せと私の幸せは違うのだから、などと言ってみたところで再び口喧嘩が始まるだけだ。





子供の頃から彼女の家の倉には麦の袋がたんまりと積んであった。

どんなに麦の凶作が続いても倉の中はいつも麦の袋であふれていた。
そしてやがて父のやりかた一つで小麦の値段はどんどん上がっていくという仕組みも知った。


小麦が取れない年を父は歓迎していた。そう言う年の秋には家族のみならず、商人や貴族を大勢呼んで、いつもより華やかな宴会を催していた。
だがその一方で食べ物が手に入らず、苦しむ人々の姿を彼女はいやというほど見てきた。



私の体もこの生活も、父の搾取の上に成り立っている。
彼女はいつか自分がここにはいられなくなることを予感していたのである。



「それが今だと言うことだわ」
彼女は乱れていた黒髪をしっかりと結い上げ、鏡台に向かって手早く化粧を直した。





不要なものはカバンには入れられない。贅沢なドレス、珍しい外国製の食器、見事なレースが施されたショールは惜しげもなく置いていくことにした。

その代わりに肖像画や聖書、ちょっとした読み書きを教える本など、自分が特に大事にしていたものや運びやすいものだけを入れた。



特に家族の肖像画を手に取ったときなど、思わずさまざまな想いがこみ上げてくる。

私はそれでも父を愛している。

父に悪いという気持ちがわき上がり、肖像画が一瞬にしてぼやけた。彼女は心の中で「ごめんなさい」とつぶやいた。





だが、感傷にふけっている暇はない。
もうすぐ怒りにまかせた父が自分を追い出すか、屋敷に閉じこめるか、いずれかの行動を起こすだろう。

やっと皆が寝静まった夜明け前の今だからこそ、早く動いた方が勝ちなのだ。





窓を開け、目立たないように黒いロングコートを着込み、カバンを先に出してから彼女は窓の桟に手をかけた。
その拍子に窓際のビューローに置いてあったロザリオが床に落ちる。



「わかってるわ、あなたも一緒よ」
彼女は水晶で出来た母の形見のロザリオを拾い上げ、大事そうにポケットに入れた。



私は与えられるだけの生き方はもう出来そうにない。
これから私は夫になる人のことを毎日慈しみながら、自分自身を人々に与える生活をしたいのだ。

それが今まで罪の上に成り立っていた私の生活に対するせめてもの罪滅ぼしでもあり、私の魂が真にそうしたがっていた事なのだから。




たとえそれがつらいものだとしても、私はやり遂げる。
私にはマリア様がついてらっしゃるのだもの。

彼女はポケットの上からロザリオを握りしめ、水晶の硬い感触を確かめた。




きっと私は黒い髪のこころだてのよい男の子を授かるだろう。そして優しい夫と共にささやかな人生を過ごすのだ。

今までずっとそうしたかった事がもう目の前に来ているのだわ。
彼女は心の中でロザリオを繰り、天使祝詞を繰り返した。




“天主の御母聖マリア、罪人なるわれらのために今も臨終のときも祈り給え”

“アーメン”





2005/2/19/


※この時代にフランスではカトリックで良かったのかどうかは確かめていません。
ロザリオのことを持ち出してからちょいと気になりました。(^^;)

up/2005/2/19/

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