−埋もれた記憶−



黒髪の少年がはじめてその屋敷へ来たのはまだ冬の寒さが残る春の事だった。

両親を亡くし身寄りがない彼は、ベルサイユにあるという祖母が奉公しているお屋敷へ引き取られることになったのだ。

暮らしぶりは質素だったので彼には簡単な荷物が一つしかなく、村人たちに別れを告げると単身、馬車に乗り込んだ。


まだ年齢10才ほどの少年のことである。心細さも手伝って窓の外を眺めては涙が出た。ふるさとが、両親の墓が見えなくなってしまっても「いつか帰りたい」という思いで後ろを振り返っていた。




引き取られた先は帯剣貴族のジャルジェ家という立派な将軍様のお屋敷で、ちょうど年格好が同じ頃の子供がいるので、屋敷の主も家族が一人増えるようなものだと歓迎してくれた。


ご主人の将軍様は正義感あふれる人で、少し短気なところがありそうだがよく出来た人なのだろうと少年は思った。
奥様は優しそうな上にたいそうきれいで、彼は密かに「きれいな奥様」と心の中で呼ぶことにした。
二人には6人のお嬢様がいると聞いていたのだが、末のお嬢様以外は既に嫁がれているらしい。



祖母からは末のお嬢様の遊び相手になるようにと聞いてはいた。

しかし深窓のお嬢様とどう接して良いのかよくわからずとまどっていたものの、いざ会ってみると少年の姿をしており少し安心した。


まっすぐに彼を見つめて「私はオスカル・フランソワ・ド・ジャルジェだ」と物怖じせず自己紹介するあたり、歳は自分より一つ下だそうだがかなりしっかりしている。



本当にこのお嬢様は女なのだろうかと不思議がる少年に、きれいな奥様は「オスカルは女の子だけれどこの家の跡継ぎなのよ」と説明してくれた。

「母上、女の子だけれどは余計です」
オスカルはすかさず反論する。


言われてみれば、年格好からすれば小柄で華奢な感じがする。

だがさすがに貴族としてしつけられているせいか身のこなしに気品があり、隙がなかった。
顔立ちも金色の髪も、天の使いのように美しいと彼は思った。





少年の名はアンドレ・グランディエ。
彼の新しい生活が始まろうとしていた。





子供がいる所はどこでもにぎやかだ。大人と違い、自由な発想でイベントを引き起こす。
アンドレがこの屋敷へ来たことで少なからず活気が出た。

いたずらも笑える程度のものが毎日のようにあり、田舎の暮らしで一通りのことは自分でこなす少年はあまり誰の手もわずらわせることはなかった。
厩の世話も、庭の掃除も彼は楽しそうにこなした。


ひとりぼっちになり、この先の生活をどうして良いものか心配するより、百倍も良い暮らしにありつけたのだから。

それにここには沢山の人がいて、親切にしてくれる。


彼はまだ小さい頃、母親から「良い行いは天に宝を積むことだ」という話を聞いたことがある。彼は無意識のうちにそれを実践していたのである。





アンドレは人見知りをしないので誰とでもすぐに仲良くなった。
使用人の子供が来ているときは遊び相手になったり、よく面倒も見た。

末のお嬢様のオスカルとは、「きれいな奥様」からも仲良くして下さいねと言われたものの、そこはやはり大貴族のお嬢様と下男という身分の違いがある。
同じ屋敷に住んでいたとはいえ、兄妹のようにいつも一緒にという訳にはいかない。
第一、オスカルは士官学校に通っている。昼間はいなかった。



釣り合いが取れるようにと、勉強についてもオスカルの家庭教師が来ているときは同席させてもらったが、部屋の隅の椅子に腰を掛け、オスカルたちの邪魔にならないようにした。

帯剣貴族であるジャルジェ家には専属に剣を教える先生も来ていたが、アンドレは少し離れたところから見ているだけだった。

祖母からは、決して身分の違いを忘れずお嬢様の邪魔にならないようにと言われていたのだ。




オスカルは軍人になるために勉強したり剣の練習をしているらしい。

だが彼は自分が軍人に向いているとは思えなかったのだ。村にそのようなエリート軍人はいなかったし、確か父は大工だったと聞く。そして母は教会で子供たちに読み書きを教えていた。

アンドレは両親のやっていたことにはあこがれたが、剣はさほど積極的に習う気にはなれなかった。
どちらかというといつまでも下男として屋敷に置いてもらえるかどうかはわからないし、そうすると自分で何か働くすべを身につけていないといけない。
だから今は何でも人が嫌がる仕事でも引き受けようと思ったのだ。



誰にも言ってないがオスカルを見た最初の印象は「生意気なお姫様」だった。

つんとすまして、高飛車な口のきき方をする。
しかしそれが悪意ではなく、貴族らしい大人ぶった態度だとはわかるので、気にはとめなかった。

むしろそれらの勝ち気な性格とは全く違う、思慮深そうな碧い瞳が彼女の本質を物語る。
接するうちにアンドレはやがて彼女のことを妹のように感じ始めていた。

特にすましていると冷たい印象の少女は、笑うととびきり可愛い。




色々とたくさん話もした。いつか名前で呼び合う仲にもなった。
屋敷の探検もしたし宝物を埋めて遊んだ。

両親の自慢話や空想話、子供同士の他愛ない会話から将来のことなど語り合った。
士官学校ではあまり友達がいないのだろうか、オスカルが学友の話をすることはほとんどない。
やはり女性であることで周囲から浮いているのか。それとも彼女自身が拒絶しているのかそれはわからない。



そして何度も聞く言葉。
「アンドレ、私はもっともっと強くなりたい」
それは彼女の口癖だった。

ジャルジェ将軍はオスカルの勇ましい姿を見ては嬉しそうにしている。
子供は誰でも親にはほめてもらいたいし、ほめられると嬉しい。




ジャルジェ将軍のオスカルに向けた期待は並大抵ではなかった。彼はそれを厳しいしつけという態度で表した。

少しでも隙があると彼女の足を蹴り飛ばすことはよくあることだった。時には殴ることもある。
「この意気地無しめ!もっと剣の使い方を上手くなれ。そんなことでは立派な武人にはなれんぞ」
「お前は本当にわしの子か?!お前など出て行け!」
「もっと強くなれ、誰にも負けてはいかん」
父の叱咤は果てしない。


その都度オスカルは殴り飛ばされても立ち上がり「はい、父上」「申し訳ありません、父上、さらに精進します」「自分に厳しく、もっと強くなって立派な武人になります」と大声で返事した。

そして本気になってその言葉通りに実行しようとがんばっていた。




おかげで身近にいる少年は格好の力試しになっていた。アンドレにとってはいいとばっちりだったのである。

遊び相手とは言うものの、彼女は自分の剣の腕試しにアンドレを使った。
基礎も知らないアンドレに勝ち目はない。

オスカルが真剣になり素早い剣さばきで仕掛けてくると、アンドレはただひたすら逃げた。
時折、庭で大声を上げて逃げるアンドレをオスカルが追いかけ回し、それを見た大人たちがオスカルの頼もしさに微笑む光景は日常茶飯事となった。
そしてアンドレを追いつめると「降参か?アンドレ」と笑った。



彼は彼でオスカルの笑顔を見たくて逃げる役を喜んで引き受けた。
アンドレはそれとなく気が付いていたのかも知れない。オスカルはこうやって一緒に遊んでいる時に精一杯のびのびと子供らしさを発散していた事を。


彼女の努力と向上心の旺盛さはアンドレでなくても周囲の誰もが認めるものだった。
それでなくても生来の物覚えの良さと器用さを持ち合わせている。
彼女は日々強くなっていたし、自分を鍛えることに喜びを感じているらしい。


反面、アンドレには背伸びをしてまでオスカルが「強い子」になろうとしているように見えた。
彼にはもうすでに両親はいない。良いところを見せたいという想いはどこかに置いてきたような気がする。

又、たとえオスカルが両親のためではなく自分のために努力していたのだとしても、彼女のひたむきさを賞賛しつつ、どこか不安定さを感じていた。




ある時アンドレは前々から気になっていたことを聞いたことがある。
「どうしてオスカルは女の子なのに男の格好をしているんだ」

オスカルは今頃何を言い出すのかという不審そうな顔をあらわにした。
「今まで一度たりとも女の格好をしたり女の遊びをしたいなんて思ったこともない。男なら自分を磨いて立派な人になれるし、自由に振る舞えるじゃないか。女なんて年頃になれば誰か知らない人のところに嫁がされて、一生誰かに従う生き方しかないし。私は男として育ててくれた父上に感謝しているんだ」


そんなものなのかな。
アンドレはよくわからなかった。

思い出しても自分の母は結婚して後悔したなどと言っているのを聞いたことがない。
きっと貴族と平民は違うんだろう、立場や生まれたところによって色々な考えがあるのだろうなと思った。





アンドレのとばっちりの原因でもあるオスカルの剣の先生は外国から雇われているらしい。
少し北の国でスウェーデンというところから来た人で、淡い茶髪によく鍛えられた体つきで、眉もきりっと男らしく、さわやかそうな笑顔が魅力の青年だった。
当然、貴婦人たちの間でも評判になっていたらしい。


オスカルへの指導は熱心で手取り足取り、時には厳しく時には優しく飴とムチで鍛え上げていく。
先生が帰った後は、将軍である父が厳しく稽古をつけていた。
オスカルは生傷が絶えなかったが、いつか父を負かすことを夢に見ながら練習に励んだ。




アンドレはその剣の先生が嫌いだった。
何がどうというのかはわからない。
オスカルを見る目が不純に思えた。剣の稽古は自分には入っていけない世界だから余計に悪い印象を持っただけかも知れないが、特にオスカルがアンドレの前で先生をたたえる時などは「聞きたくない」とさえ思った。


オスカルはこの剣の先生がたいそうお気に入りだ。もしかして彼女が先生に好意を抱いているかと思うと気が気ではない。出来れば彼女の笑顔を独り占めしたいとさえ感じている。



この頃が彼の恋の始まりだったのかも知れない。





滅多に怒らないアンドレが一度だけオスカルに怒鳴った事がある。

二人で剣の手合わせをしていて、いつものようにアンドレを追いかけ回しときのことだ。
彼は剣をはじかれ最後は小石につまずいて転んだ。

「どうだ!アンドレ!もう降参か!?」
オスカルが息を弾ませて剣を突きつける。
「さっき先生に教えてもらった踏み込みがうまく行った。どんなにしてもアンドレは身をかわせないだろう」
オスカルは自慢げだ。


いつもなら笑って済むような会話のはずだった。だけど剣の先生と俺とは関係ない、むしろ先生と俺を比べるのはやめて欲しい。アンドレはいつになく腹が立ってきた。



「やめてくれオスカル」
アンドレは声を荒げて目の前の剣を手の甲で払った。
そして素早く立ち上がり彼女を見下ろした。
さすがにオスカルも一瞬黙った。いつもの彼と違う、目が怒っている。

「強くなりたいからって、いじめるのは強いんじゃない」
アンドレはつい、口が滑った。

追いかけられることも嫌いではなかった。むしろ妹のようにかわいいオスカルの遊び相手になることは楽しかった。

だが今日は自分でも虫の居所が悪かったのかも知れない。

特に先生の話なんて聞きたくない。



誰のために強くなりたいんだ?何のためなんだ?

父に蹴飛ばされても傷だらけて付いていき、男になるのだと涙も我慢してがんばって、一体、どうするんだ?
そういう思いが、ついキツい言葉になってしまった。


だがオスカルは謝れなかった。
意地があったのである。


「アンドレなんかキライだ」
彼女はぷんと怒ると屋敷へ帰ってしまった。






アンドレの祖母は「ばあや」と呼ばれた乳母である。

オスカルが無言で部屋に駆け込んだのを見逃すはずがない。
ジャルジェ家の召使い頭としての地位もあるし、誰からも頼りにされている。屋敷内で彼女のわからないことはない。



後で事情を問いつめられたアンドレは祖母に大目玉を食らった。

果てはお嬢様に謝りに行きなさいと言われ、手を引っ張って連れて行かれ、オスカルの前で頭を押さえつけられてぺこぺこと下げさせられるハメになった。


だが、そうされなくてもアンドレは言ってはいけない一言を言ってしまったと感じていた。
後で冷静になると、両親に期待されるオスカルが羨ましかったのかも知れないとも思える。結局、本当の自分の気持ちなんてよくわからない。



こういう時は潔くあやまるに限る。
彼は祖母の手を押しのけ、きちんと姿勢を正して言った。


「オスカル様、俺はひどいことを言ってしまいました。もうあんな事は二度と言いません。許してくれなければ俺はこのお屋敷から出て行きます。…そしたらしかたないのでどこかで野宿します」
ばあやがいるときはこういうていねいな言い方をしないと叱られるのだ。しかし所々、言葉遣いがおかしい。




オスカルはへんな謝り方に吹き出してしまった。
ばあやもやれやれと胸をなで下ろし、アンドレの首根っこをつまんで部屋から退散した。






嵐のような二人が去った後、オスカルは実のところ一人で気まずくなっていた。
後悔したのはアンドレだでけではない。

実はオスカルの方がもっと後悔していたのである。

確かにアンドレがあまりにぎゃあぎゃあと騒ぐのでいつも面白くなって剣を振り上げて追いかけた。
だけど相手も楽しかったのだろうとは決して言えない。嫌がっていたのかも知れない。


悪いことをしたと彼女は反省していた。




それよりも彼女の心に深く響いたのは、アンドレが今まで自分のために弱虫の役を演じてくれていた事だった。

子供扱いされていたと言うよりは、見守られていたことが妙に嬉しい。
だけれどそれに甘えて度を過ぎるのはいけないのだ。




アンドレは言っていた。「強いんじゃない」と。



人より強くなることばかりが強い事ではないのだろうか。
父上は誰よりも強くなれ、勝てと言う。





強いとは何だろう……?



オスカルははじめてその意味を深く考えようとしていたのである。





彼女は色々と考えた末、結論を出した。今日は謝れなかったので明日は私からもちゃんと謝って、これからは彼に対して優しく接しようと思った。




しかし次の日、アンドレは現れなかった。

やはり彼は怒っていたのかなとオスカルは気持ちが萎えた。
そしてその次の日も現れない。
オスカルは少なからず気になっていた。


歴史の勉強をしながらも、剣の稽古をしながらもどこかスッキリしない。
剣の先生に集中が足りないと叱られても、どうも乗り気がしない。


謝りそびれるとはこんなにいやなものかとオスカルはうんざりしていた。



彼女はその日の勉強が済むと一目散に支度部屋へ駆けていき、食事の準備であわただしく働くばあやにしがみついた。

「ばあや、アンドレはどうした?昨日から見かけないんだ」

ばあやは弱り切った顔で苦笑した。

「もう、お嬢様。色々とご迷惑をおかけして申し訳ございません。あの役立たずは昨日突然、熱を出して寝込んでおります。働きもせずに寝ているなんて大きな声では言えませんが、元気になったらバンバンこき使ってやりますから、是非お許しを……」



とにかく年寄りは話が長い。
聞きたいのはアンドレが今どうしているかだよ。
オスカルは支度部屋を飛びだして行った。





アンドレの部屋は召使いたちの部屋の中の一つにある。住み込みの者たちの部屋は北に向いたあまり日の当たらない所だが、窓が広く気持ちがふさがる事はない。
彼はばあやとは別の部屋をあてがってもらい、ちゃんとした一人部屋になっていた。


オスカルがアンドレの部屋に向かっていたとき、廊下にいた召使いの女たちが口々にアンドレの話をしていた。


「本人も気が付かないうちに疲れがたまってしまったんでしょう」
「かわいそうに、一人で色々とかかえてしまっていたんだろうね」
「昨日はうわごとで母さん…なんて言ってたよ、私、もういたたまれなくて」
一人はすでに涙声になっている。
「私も涙が出てきたわ」
「……私も…」





オスカルはその話を聞いてはっとした。彼女は勘の良い子だった。

両親と死に別れひとりぼっちになり、見知らぬ屋敷に引き取られ、毎日がんばっていたら誰でも無理が出てくる。


はじめてその時、アンドレが今までに彼女には計り知れない悲しい目にあい、苦労を黙って耐えていたことを知ったのだ。
だけど彼がつらそうにしていることは今まで一度も見たことがない。





強いって何だろう……。


オスカルは再び小さい頭で考える。
そして足は自然とアンドレの部屋に向く。





ランプの消えた部屋でアンドレはベッドに沈むように眠っていた。
カーテンが少しあいており、鈍い光が部屋全体をぼんやり明るくしている。


「アンドレ、大丈夫か」
オスカルは小さい声で聞いた。


「……あ…」
熱にうなされているのか赤い顔をした彼は半目を開けてうなった。


「私はアンドレに謝らなくてはならない。私の方が悪かった。アンドレごめん。もうお前が嫌がることはしない」
彼女はベッドに身を乗り出し、枕元で自分の両手を握りしめて言った。

「聞いているのか、アンドレ」



アンドレは夢うつつでこたえる。

「…こんなところに…来ちゃだめじゃないか。熱がうつったらどうするんだ…」
これは夢なのだろうか。オスカルがこんなところに来て自分を心配げに見ている。


やっぱり夢だろうな。なら何を言ってもいいや。


「悪いのは俺だよ。…オスカルは俺の大事な子なんだ。……俺が守らなきゃならないのに…怒鳴るなんて最低だよ…」
少し息苦しそうな声で彼は話し続ける。言葉とは裏腹に目はうつろで今にも閉じてしまいそうだ。

「……」

「そのままでいいんだ、今のままで…。強くなくても…がんばらなくても…オスカルはただのオスカルでいいんだ…。俺……ふつーのオスカルの事が…好きだから」

彼はベッドの中から弱ってやせた腕をゴソゴソと出し、オスカルの金色の頭をゆっくりとなでた。

ちゃんと触れて感触もある。かなりリアルな夢だな。


それも彼女はいまにも泣きだしそうだ。
あんなに勝ち気なオスカルが泣くのは珍しい。




「……アンドレ…」

オスカルはシーツに顔を伏せて泣き始めた。
悲しかったのではない、ホッとしたのだ。

時折、自分でもどうすることも出来ないような大きな壁が心の中に立ちふさがることがある。その壁が崩れて行くような安堵感が一気に吹き出てきた。

本当は大声で泣きたかったのだが、ここにはこっそり来ているのでそれは出来ない。




「…どうして泣くんだ、オスカル。…お前は笑っている顔が…本当に可愛いのに」

そう言われてオスカルは顔を上げた。笑顔なんて言われてもすぐに出来そうにない。




「そうだ、オスカル。…前から言おうと思っていたんだけれど、……大きくなったら…俺のお嫁さんになってくれる…?」

「……」

返事はない。


まあいいや、どうせ夢だ。言っちゃおう。


「……俺は一生懸命お前のために働くし、家も建てるし、……お前を幸せにしてあげる」


自分でもなかなかの決めセリフだ。
しかしこのセリフはこの間、召使いのルイーザに独身の下男の一人が言っていたことの受け売りなのだが…。
いや、この際そんな事どうでもいい。自分が知っている言葉しか出てくるはずがない。



再び返事はない。

オスカルは泣きはらした目でポケッとした顔をしてアンドレを見つめているだけだ。





俺は何かオスカルを悲しませることを言ったっけ……




アンドレは自分にそう問いかけながら再び深い眠りに落ちた。

その後、オスカルが頬にキスしてくれたような気がするのだが、記憶がおぼろげで思い出せない。





それから二、三日ほど経った頃、ようやく起き出し重い体を引きずって馬の世話をしていたアンドレの元にばあやが目をつり上げてやってきた。


「おまえ、お嬢様に病気をうつしたんじゃないだろうね」
ばあやの話はいきなり唐突で、前後がわからない。

「どうやってうつすんだよ!?」
アンドレはわけがわからず答えた。ばあやも確かにそれはそうだと首をかしげる。


「オスカル…様は…ご…病気なのか、おばあちゃん」
「今お嬢様が高い熱を出してらっしゃるんだよ」
「大丈夫なのか?」
「ちゃんと早めに気が付いたから大事にはならないよ」
「だけど俺が熱を出してオスカル…様の部屋に行くなんて無理だよ。ちゃんと寝ていたし…」

そう言いながら、あの夢のことが妙に引っかかるアンドレだった。




しばらくして、オスカルの剣の先生にジャルジェ夫人が暇を出した。

少なくとも最強の敵がいなくなってアンドレはほっとしたのだが、実のところジャルジェ夫人も屋敷内のことには広く目を配っていたのだ。


稽古の途中で剣を飛ばされ、草むらの中を探すオスカルに先生が抱きついていたことを、たまたま草を刈っていた下男が目撃して知らせたのだ。

一瞬だったのと、オスカルにはハチが背中に付いていたとうまくごまかしたらしいが、夫人はだませない。



少女趣味の男など危険すぎて置いてはおけない。



今は単なる疑いだけだが、証拠をつかむまで泳がし何か有ってからでは遅すぎる。

彼女は昔世話になった人からオスカルに是非とも剣を教えたいと頼まれてしまい、断り切れないからと、すまなさそうに言いくるめ、きれいに縁を切った。





がっかりしたのはオスカルだった。ある日、先生はふつりと来なくなった。剣を見つめるたびに寂しく感じた。

しかし少女の日の一こまはすぐに記憶の底に沈んでいく。剣の先生へのほのかな想いは、やがてスウェーデンからやってくる、先生によく似た貴公子に出会うまで眠り続けるのである。




そしてアンドレから受けた幼いプロポーズも同じように記憶の底へ沈んでいった。

彼女がそれに答えるのは、遙か未来のことなのである。




後日、オスカルはもうアンドレを追いかけることはしなくなった。かわりに仕事をかかえていたために勉強で遅れがちなアンドレの補習をはじめた。

アンドレはジャルジェ将軍に頼み込み、オスカルの剣の稽古につきあわせてもらうことにした。
少しは強くなってオスカルを守りたかったのだ。



子供たちは少しずつ影響し合い、吸収していく。
周囲から見ても良い影響を与えあっている二人は、大人たちから暖かく見守られて育っていったのである。


おわり

2005/1/18/







※注:今、職業として「下男」という表現は不適切のようです。
ただ、話の中では召使いと少し違う職業として使い分けました。実のところ「召使い」にも「下男」という解釈が有るようですが。
国語辞典で下男は「下働きの男」という意味で記載されており、「下働き」には「炊事・雑用」とあります。
アンドレは特定の専門職ではないので雑用係としました。草を刈っていた人もそうです。
あくまで身分制度の時代の話の中での使用であり、特定の職業を誹謗中傷する目的ではないことを申し上げておきます。
(と、念のために一言書いておきます)


ちなみにアンドレはこの後、【BATEI】になるのですが、これも不適切な表現らしいです。


特に悪意があって書くわけではないし、うっかり使っていることもあるし、中にはその表現を使わなくては情景が伝わりにくい場合もあるので、言葉の使い方は本当に難しいです。



up/2005/1/21/

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