−おだやかな空−



そろそろ日差しがまぶしくなってくる6月の初旬、とある小さな村に男が馬車で到着した。
彼は妻を伴っており荷物を手早く足下に置くと、大事そうに彼女の手を取って支えるようにして降ろした。


彼女は少し足が弱いのか、ぎこちなく二、三歩踏み出し、狭い馬車からやっと解放され、ゆっくりと天を仰いだ。
晴れ渡った青空の西の隅で、気まずそうな三日月が遙か遠い山に消えようとしている。
ここはパリと違い、空が広い。



村人は遠くから眺めるだけでなかなか彼らの方から寄っては来なかった。
男が村を出てから四半世紀は経っているだろうか。今では村には知り合いもほとんどなく、親しげに迎える者はいないらしい。



男は荷物を片手に、もう一方の腕は妻の腰に回し、のどかな田舎の馬車道を丘にある教会へ向けて歩いていった。

道の脇には土壁の家がまばらに建っており、男と妻は通りに出ている村人にかすかに笑って会釈した。
村人たちは今日、この二人が教会へ来ることを知っており、二言三言、祝福の言葉を贈っていた。


時にはお天気の事などを話しかけられ、「奥さん」と呼ばれたその妻は少しはにかんだようすで男を見た。
どうやらそう呼ばれるのがあまり慣れていないらしい。



なだらかな坂道を上がり、村を一望できる石造りの教会に到着したとき、塔の鐘が昼を知らせるために鳴り始めた。





男はここに戻ってくる予定はなかった。

本来はパリのサンタントワーヌ地区にあるサン・トゥスタシュ教会で式を挙げるつもりにしていたのである。
そこなら友人たちもいるし、みんなに祝福してもらえる。

とは言えパリの混乱で教会は負傷者が運び込まれたり、住居を持たない者たちの避難場所になってしまい、つい気が引けてしまったのだ。

それに妻も彼の生まれ故郷であるこの教会にかねてより行ってみたいと希望していたので、男はここで遅ればせながら二人だけの結婚式を挙げることにした。





かつて妻は女性ながら軍属だった。貴族の身分であり、それなりの高い地位にいた。
彼女はその当時、同じ民同士の戦いを最後まで止めようとしていたのだ。
それも無益な争いを嫌い、自分のことを顧みずに弱い者の側に付こうとしていた。




あの7月14日、要塞の襲撃は起きた。
民衆と要塞を守る国王の兵士が衝突した時、彼女は戦いの最中に要塞に出向き、中にいた指揮官に何度も交渉を持ちかけた。
取り返しがつかない事にならない前に要塞を明け渡すようにと説得したのだ。


民衆の怒りは頂点に達していた。
騒ぎはそもそも、うわさに尾ひれが付き、ほぼ自然発生的に起きたものだ。
もちろん扇動する者はいたが、今から思えば苦しい生活を強いられていた民衆にとって、憎悪の的であった要塞の襲撃は起きて当然の出来事だった。


彼女は要塞からパリの市街地に向けられた大砲が、何よりも民衆を刺激している事を伝え、この戦いを続けるのは相当な覚悟がいることを相手にわからせようとした。


もう誰にも止められない歴史の巨大なうねりの中にいて、虐げられた者を守りたい、ただひたすら犠牲者を出来るだけ出したくないという思いが彼女を動かしていたのである。



しかし指揮官は平民の生命などどうでもよく、自分たちは勝利するのだと信じていた。
むしろ、彼女こそが民衆の怒りを後ろ盾に、降伏を勧めにきている裏切り者だと思いこんでいた。


彼女もたやすく説得できる相手ではないことぐらいわかっていた。午前から始まった交渉は午後遅くまで長引いたものの、同じ事を繰り返しているにすぎない。

要塞の外には群衆が押し寄せ、数は増えていくばかりだった。
すでに城門の一つは突破され、群衆は着実に要塞に迫りつつある。犠牲者も増えはじめ、事態は緊迫していた。

廃兵院から奪ってきた大砲もこちらへ向かっている。部下たちもまもなく到着するだろう。
とすれば彼女も決断をしなければならない。



最後の交渉が決裂したとき、引き返す彼女を後ろから兵士が銃で撃ったのは、指揮官の命令だったのである。このまま帰せば、直後に彼女が牙をむいて襲いかかってくることを恐れたのだ。


階段の縁にいた彼女は衝撃で階段を転がり、踊り場まで落ちていった。
その後すぐに同行の部下に運び出されたものの、彼女のあえぐ様子はかなりつらそうに見えた。
しかし手当を断り、そのまま陣頭指揮をしようとした彼女の姿に部下たちが奮起した。




要塞からは以前にも増して激しい一斉射撃が始まり、どうしても城門を落とせないでいた民衆に多大な被害が出始めていた。
司令官であった彼女はその時、黒い髪の部下に支えられ、右手を高く上げて要塞の城門を指した。


その瞬間、十二門の大砲が一斉に轟音をとどろかせて発射され、堅牢な城門は一気に吹き飛んだ。
勢いを得た民衆は要塞になだれ込み、兵士たちをなぎ倒す。大きな叫び声が響きわたり、銃声を飲み込んでいった。



彼女はそれを見届けると意識を失い、長い眠りについた。
ある意味、彼女がそれ以上、騒動の顛末を見なくて良かったと黒い髪の部下、つまり彼女の夫であるその男は思った。


要塞から引きずり出された指揮官は、怒りにまかせた民衆に顔の相が変わるほど殴られたあげく首を切られ、槍の先に付けられて民衆の勝利の行進の「のぼり」となったのだ。




要塞を落とすために先頭を切って飛び込んだのは白いボンネットをかぶった下町の女や、貧しい工員たちだった。
彼らは民衆に囲まれ英雄として讃えられていた。

その一方で、勝利の行進から取り残された男たちは傷ついた自分たちの司令官である彼女を助けようと、医者を呼ぶために叫んでいたのである。



流血を、そして無駄な戦いを嫌った彼女の望まぬ方向へ、世の中が向かいはじめた瞬間に、彼女は立ち会わずに眠りの世界にいたのである。


民衆はもう、彼女が守ろうとしていた弱者ではなくなりつつあった。




翌々日になって何とか意識が戻った彼女が見たのは、壊されていく要塞の姿だった。
あの時の妻の無表情な顔を、男は忘れることが出来ない。


自分の出来ることは全てし尽くしたと思ったのか、または何か別の新しい使命を探そうとしていたのか。

あるいは犠牲になった友人や多くの人々の事を想っているのか、もしくは自分が謀反を起こしたことで迷惑をかけたであろう父や母そして一族に済まなく思っていたのか。
それらを伺い知ることは出来なかった。

彼女は瀕死の大怪我を負っており、ベッドからは動けなかったのである。



彼はただひたすら妻の痛々しい様子を見るだけで胸がつぶれそうな気持ちになり、なにかして欲しいことはあるかと聞いた。

彼女はその時はじめて涙を浮かべて、どこかの静かな小さい教会でいいので、神様に祝福されて結婚式を挙げたいと言った。

男は返す言葉もなく彼女の手を握りしめた。彼も又、同じように涙が自然とあふれてくるばかりだった。





あれからもう一年近くになる。ようやく体が回復した妻の願いはもうすぐかなえられそうになっていた。

後になって男はあの時のことを彼女に聞いたことがある。
妻は少しかげりのある表情で、色々な想いが交錯して一言では語りきれないと言った。
そして自分のしてきたことを今更どうのと言っても仕方ないが、ただ、以前に仕えていた女主人をもう守れなくなってしまったことを悔やんでいるとも言った。


覚悟をしていたとはいえ、自分が謀反を起こしたことがやがて女主人を追いつめる事になるのではないかと思うといたたまれないのだろう。

そのような想いは今も時々わき起こるらしい。時々遠いところを見ている妻に、男は無言のまま優しいまなざしを向けることが何度となくあった。





教会の鐘の音がやんだ頃、男が古ぼけたペンキ塗りのドアを開けてみると、神父が塔から狭い階段を下りてくるところだった。
村人は昼時で誰も来てはいない。


神父はにこやかに二人を迎え入れ、長旅で疲れただろうし何か暖かい飲みものを出すから椅子にかけて待っているようにと言った。




お香と土の香りが漂う小さな教会を初めて見た妻は嬉しそうだった。
外の陽気に比べ、中は高窓からの光が差し込むだけで日中も薄暗くひんやりしていて、すすけたマリア様の像や所々はげた壁のペンキがいかにも田舎の教会らしさを物語っていた。


子供たちが使う聖歌の本が脇の机にきちんと並んでおり、素朴な印象を受ける。


二人が並んで腰掛けると彼女はさっそく荷物の中から二枚の色違いのドレスの裾だけを引っ張り出して、どちらが似合うか小声で男に聞いた。
彼がどちらとも決めかねてあいまいに返事をすると、彼女はあきれたような顔をした。
だが、すかさず今度はこの教会の思い出を語るようにせがみ、男を困らせる。


彼はあまり幼い頃の記憶がない。


その後の人生に色々とありすぎて、あまりに古い記憶はどこかへ置き忘れてしまったらしい。
ただ、両親の墓がこの村あることは覚えていた。そう、その昔、独りきりになった自分を祖母が引き取りに来るまでは、ちゃんと墓に花を供えていたのだから。

彼はこの教会で式を挙げることはもちろんだが、両親の墓前で結婚の報告がしたかったのである。

今は幸せであること、そして元気で暮らしていること。
妻は気だても良く物静かな女性で、自分のことを深く愛してくれている。
そして彼自身も同じように妻を心より愛していることを。




そんな男の思いをよそに、妻は相変わらず二枚のドレスのどちらがいいかまだ迷っているらしい。
かつては重い責任を背負い、何事も瞬時に決断し行動していた彼女からは想像できない変わりようだ。

式を挙げるときにどちらの色でもいいじゃないかと思いつつ、彼は口には出さない。
妻が迷うことを楽しんでいるのを知っていたからだ。



こんなに穏やかに、こんなにささやかなことを悩む日が来るとは彼女も考えはしなかったに違いない。


そうこうしていると今度は彼の服装のことであれこれ文句を言い始めた。
彼女は失われた時間を取り戻すかのように少女のようなわがままを繰り返す。

そうかと思うといきなり押し黙り、じっと彼を誘うように見つめては視線をはずす。



その憂えた表情に男はどうしようもなく弱い。


たまらず妻の背に両手を回し強く抱きしめたかと思うと、やや強引に口づけた。
それでも彼女は面白がって顔をそらして逃げるのだが、真剣になってきた彼はそれどころではない。今度は彼女の頭を押さえつけて動けないようにした。

髪留めが落ち、彼女の見事な金色の髪が乱れて広がる。

妻は何かくぐもった声でうなっていたが、男にはどうでもいいことだった。
なぜなら彼女も彼を強く抱いていたのだ。




神父が手に持ったポットの中身はだんだんとぬるくなってきていた。
二人に声をかける機会を逸してしまったのだ。
彼はそっと後ろへ下がり、自分の小部屋に戻ることにした。


明日もきっと良い天気になるに違いない。
そう、二人のために神様の祝福があるに決まっているのだから。



明日はきっと良い日になるに違いない。








−おわり−







1996年10月頃

未完の物語より大幅加筆
2005年1月12日

※注:作中に出てきた歴史的出来事及び地名場所名についてはくれぐれも信用しないで下さい。(^^;)


※話の中でペンキのドアと書いてから気になってネットでペンキの歴史を調べたところ、18世紀の中頃には一般化したとか。なるほど……

up/2005/1/15/


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