−お知らせ−

このお話は史実に基づくものではなく、単なる妄想です。
一部に実在した人物・団体・物体・出来事・地名・思想・制度なども登場していますが、その行動や性格設定・実態・本質及び情景etcは、全て「でっちあげ」です。
又、内容も原作から大きく外れている場合も大いにあり、予測なしにオリジナルキャラクターも登場します。
まれに、現在は控えるべき表現も出てきますが、あくまで場面を描写するためにやむなく使用しています。
気になる誤字脱字誤用も当然、存在します。

特に、オスカル様はバスティーユでかっこよく散るに決まっている!原作と同じ展開で、行動も原作通りのオスカル様じゃなきゃダメ!と言う方にはお勧めできない内容になっています。

それを承知の上、多少のことは目をつぶり、遊び心で読んでみようという方のみ、下へお進み下さい。





-雨上がり-




七月十四日の夜、バスティーユ襲撃事件を知ったリアンクール公爵はパリに赴き、情報の収集を急いだ。


市民側に百人近い犠牲者と多数の負傷者が出たこと、牢獄を守っていたド・ローネ侯爵は捕虜となり、市庁舎に連行されたがそこで逆上した群衆によって殺害されたことなど、衝撃の事実が次々と明らかになった。

そして市民に武器を出し渋った市長のフレッセルも又殺害され、二人は首をはねられた後、槍の先に首を突き刺されたまま市内を引き回されたのだという。

パリ市内は勝利に沸き、人々は祝いの歌を歌いながら練り歩いている。


だが、パリの下町に住む住民がバスティーユ牢獄を打ち破った事は、単に人々が怒りにまかせて暴動を起こしたのではないことをリアンクール公爵は感じ取った。


これまでは制度の中で国王の命令によって残虐な目にあってきたのは民衆の方である。
かつて見せしめのために行った車裂きの刑では、貴族たちの見せ物になりながら罪人が生き地獄を味わって死んでいった。

身分の違いにより決して逆らうことが出来なかった彼らが、貴族に対して積年の恨みをようやく果たしたと思えば、これまで貴族たちが民衆を罰し、刑場として使われてきた市庁舎前の広場でド・ローネ候らが処刑されたのは非常に深い因縁がある。

行為自体は野蛮で残虐であったが、民衆はかつてひどい目に遭ってきたのと同じ方法で、特権階級に対して復讐を遂げたのだ。


決してベルサイユ宮殿が襲撃を受けたのでもない、国王とその強力な制度が打ち破られたのでもないが、圧政の象徴として存在していた牢獄を落とした意味は、第三身分が自力で勝利を勝ち取り、大きな自信を身につけた事に他ならなかった。


又、衛兵隊の兵士らが攻撃に参加し、勝利を決定づけたことも合わせ聞いたリアンクール公は、ジャルジェ准将がその場で何を思い、どんな気持ちで民衆の盾となったのか、思いを巡らせていた。


夜も更けて雨が降り出し、牢獄を落とした群衆の誰もが落ち着きを取り戻した頃、ようやく人々は跳ね橋を落とした衛兵隊とその隊長を誉め讃えたのだが、彼らの行方を知るものは誰もいなかった。

だが人々の不確かな記憶では、その隊長はかなりの深手を負い、とても生き延びているとは思えないと口をそろえた。

共に戦ったはずの衛兵隊の兵士たちもちりぢりになり、たとえ見つけ出して話を聞けたとしても、ただ悲壮な面持ちで沈黙するばかりで、もはや准将の死亡は確定的かと思われた。


宮廷ではバスティーユ牢獄が落ちたと大騒ぎになったが、あくまで暴動に過ぎないと思っており、相変わらずパリとは温度差があった。

王の寝室係でもあったリアンクール公爵は大急ぎでベルサイユに引き返し、いまだ事態を把握できずにいた国王に対し「これは革命でございます」と告げたのである。


一方、立憲国民議会はバスティーユ襲撃事件を受けて勢いを取り戻した。

多大な犠牲者を出しながらも民衆は勝利をもぎ取り、王権に対抗したのだ。
この信念を引き継がねばならぬのは、国民の代表である自分たちに他ならないと議員らは誓ったのである。



翌日の十五日の朝になって、国王は事態を収拾するために自らの敗北を認め、パリに駐屯する三万人の兵士の撤退を宣言した。

結果的に全く軍として機能しなかった兵士たちはパリから去ることになり、市民は勝利に熱狂したのである。

彼らは自分たちの新たな市長に議会の議長バイイを任命し、市民軍は国民衛兵隊と名を変え、自由主義の英雄ラ・ファイエット候を司令官に任命した。

征服されたバスティーユ牢獄は十六日に解体が始まり、屈辱の塔が壊されていくのを目の当たりにし、市民たちは体制の崩壊をよりいっそう実感として感じた。




「ラ・ファイエット候が司令官…。あの見かけ倒しの…ゴホンゴホン」
フランソワはどうも納得がいかなかった。

国民衛兵隊の隊長となるべきなのは、本来ならジャルジェ准将だと思ったのだ。


「ラ・ファイエット候は前々から俺たちの隊長みたいにさっそうとしたかったんっすよ」
ラサールもそんな気がしていた。
いつか議場に近衛兵が突入しようとしたのをオスカルが阻止した時、彼女の後ろでねたましげに射るような視線を投げかけていたラ・ファイエット候の顔を彼は思い出したのだ。


「きっと隊長がいなくなってホッとしてるんだぜ、あいつ」
ジャンもこのまま国民衛兵隊に所属すべきかどうか迷っている。

市庁舎に行けば彼も又、バスティーユ攻撃の英雄として誉め讃えられるのは間違いなかった。しかし、今はそんな気になれなかったのである。
彼も又、ラ・ファイエット候をさほど信頼していなかった。



「……」
アランは何も言えなかった。

ラ・ファイエット候は、いつかオスカルが何らかの衝突に遭遇し、争いの矢面に立つことも充分に想定し、失脚するのを待っていたのかも知れないと思うと、世の中を器用に渡り歩く人間がどうにも好きになれなかった。

それにパリ市庁舎にいた市長も委員会も、オスカルの台頭を恐れ、あのバスティーユ騒動の中、わざと彼女に不利益な役割を押しつけた。


国民衛兵隊の司令官となったラ・ファイエット候が、パリ市庁舎の委員会と対面し、心地よくおだてられ、「やはり大事な役目は女には任せられませんからな」と互いに冗談を言いあっているのを聞いた時は、さすがのアランも手が出そうになった。

しかしだからといって、もしオスカルが無事だったとしても、王妃の気持ちを逆なでする国民衛兵隊の隊長にまんまと収まっていたかと言えば、それも決してありえないと思われた。


あの時、多くの兵士は王の命令に従わず、出動を拒否した。
寝返った兵士や市民兵らも市街で警察などを相手に武力衝突していたと言う。

だが、直接バスティーユに駆け付けて民衆のために跳ね橋を落とし、戦いを終わらせようとしたのはジャルジェ准将その人だった。


それなのに命を賭けて戦ったオスカルに報いは何もなく、結局、行き場を失っただけとはどういうことだろう。

彼にとっては全ての経過が気に入らなかったのだ。




**********




バスティーユ事件の後、宮廷側の譲歩はまだまだ続く。

十六日にはネッケルを再び財務総監の地位に戻し、十七日には国王自らがパリに出向き、市が定めた赤白青の三色、つまりパリ市と王室の色を合わせたという意味を司った帽章を受け取り、パリの勝利を追認した。

市民たちもこの訪問を「国王万歳」と歓迎し、王室への根強い支持を表明したのだ。


だが国王がこの時、「人民との和解」に応じたのは決して平民に従うためではなかった。
そのうち機会を伺い、再び強力な王権を取り戻したいと考えていたのである。



国王の弟であるアルトア伯はルイ十六世に対し、パリ東方二百キロにあるメッスまでひとまず退却し、そこからパリに攻め入る計画を持ちかけていた。

アントワネットも又、国王が一旦メッスへ行き、国王軍を直接指揮するのが良いと進言した。

だか、一方で同じく国王の弟であるプロヴァンス伯と陸軍大臣のブロイー公は、国王がベルサイユから離れた間にオルレアン公が王権を横取りするのではないかと恐れ、国王が動くことに反対した。


結局、判断に困った国王はベルサイユに留まることにし、アルトア伯は王を臆病者よばわりして見捨てたのである。

十六日に彼はさっさとオランダへ去り、他の貴族たちが亡命をはじめるきっかけを作ったのだ。

しかしむしろ国王も貴族に亡命を勧め、彼らの安全を図ろうとした。

そして王室に忠実なフランドル連隊をベルサイユに呼び寄せる事を決意し、宮廷の守りを固めようとした。




近衛連隊長であったジェローデル大佐はこの決定を受けて即座に連隊長の地位を退く決意を固めた。

パリに三万人の兵士が駐屯することにも彼は反対であったし、権力の維持しか頭にない宮廷のいいなりになって、武力を行使することには前から疑問を感じていたのである。

少なくとも前隊長のジャルジェ准将の後を引き継ぐことが彼の誇りでもあった。
しかしその想いも、もう決して届くことはなくなったのだ。





「王妃様、私は最近身体の具合があまり良くありません。特にここ数日は頭がズキズキと痛み、せめて空気の良い…」
王妃の親友でもあるポリニャック公爵夫妻も又、国外へ逃亡しようとしていた。


「いいのですよ、あなたに危険が及んではいけません。早くどこか安全なところに行って下さい。そうだわ。ウィーンはどうかしら。きっとあなたなら気に入って下さることでしょう」
アントワネットは言いにくそうにいとまを告げるポリニャック夫人を促した。


「離れていても私たちはお友達です。いつまでもあなたの幸せを祈っています」
アントワネットは心をこめて彼女を送り出した。


「アントワネット様」
ポリニャック夫人はつい目頭が熱くなった。

かつて王妃のそばにいることで権力を欲しいままにし、そして今度は身に危険が迫ってきそうになれば一番に逃げ出そうとしている自分に対し、王妃はただ笑って祝福するばかりなのだ。

この時ばかりは狡猾な彼女も罪悪感を感じ、たとえ離ればなれになっても王妃のために尽くそうと誓ったのである。

ただ、この別れが二人にとって永遠の別れとなるとは互いに予想もしなかったであろう。



そしてポリニャック夫人だけではなく、王族や貴族は次々に亡命をはじめていた。

いずれも自分の身に危険が及ぶのを避けるためだが単にそれだけではなく、平民たちの反乱を押さえ、国王と連絡を取り合い、革命の火がこれ以上燃え広がらないように尽力する心構えでいたのだ。

彼らにしても貴族社会がこのまま滅びていく事は、どうしても阻止したかったのである。




**********




ジャルジェ家ではバスティーユ襲撃の起きた十四日の夜、大騒動が起きていた。

オスカルが民衆側に味方し、命を落としたという情報が飛び込んできた時にはまずばあやが卒倒し、ジャルジェ夫人もがっくりとひざを落とし、そのまま病の床に就いた。

父であるジャルジェ将軍は書斎に閉じこもり、食事の時間になっても出てこようとしない。

屋敷では火が消えたように人々は静まりかえり、召使いたちも動揺した。

しかし、むしろばあやが先に倒れたことで、他の者たちが気持ちをしっかりと保てたのかも知れない。



又、医者のラッソンが突然屋敷にたずねてきて、少し前にオスカルの具合を診た事を切り出してきた。

ジャルジェ将軍は医師の話を聞き、オスカルが残された時間を自分なりに使いたかったのだろうと結論づけた。

跡取りにする事はどのみち難しかったというラッソンの話を聞き、ジャルジェ将軍はようやくオスカルの事をあきらめざるを得なかったのである。


娘である彼女の考えはやはり理解できない。しかし、彼女が信じたものをあえて否定しようとは今さら思えなかった。

もし謀反人としてオスカルだけではなく、彼も又、裁きを受ける事になったとしても、それは甘んじて受けようと心に決めていた。


そして続いて飛び込んできた話によれば、アンドレも行方不明になり、ひどい怪我を負ったまま行方不明になっているということだったが、意識が朦朧となっているばあやにそれを伝えることは難しかった。

ジャルジェ夫人はもう少しはっきりとした情報がつかめるまで、このことを今はばあやに知らせないままの方が良いのかも知れないと、しばし伏せておくことにした。


今から思えば、どうしてあの朝、二人を何としてでも引き留めなかったのだろうかと悔やみ、又、反対に、オスカルとアンドレが自分の思った通りに生きたのであれば、二人は満足だったのかも知れないと、夫人はひたすら自分に言い聞かせていた。


だが、いずれにせよジャルジェ家の人々は、彼らがただ亡くなったといううわさ話だけでは、そう簡単に二人の死を受け入れることは決してできなかったのである。




**********




ジャルジェ将軍は即座に国王と王妃に謁見し、この件について陳謝し、王室へのさらなる忠誠を誓っていた。


「もしオスカルが無事に帰還すれば本人から事情を聞けばよいことです。大臣たちの意見も尊重しなければならないので簡単な処分では済まないかも知れませんが、その時は私が必ず守ります」
アントワネットはジャルジェ将軍のあまりのやつれように心が痛んだ。

大切な跡取りを失った彼の気持ちは痛いほど解る。
彼女はこの件に関してあまり事を荒立てたくない気持ちがあった。



王妃がオスカルに対して友好な気持ちを今もなお持ち続けているのだとすれば、誰でもあからさまに彼女を謀反人と決めつけることで王妃の怒りを買い、我が身を危険にさらしたくはない。

宮廷でもオスカルの話題は尽きなかったが、とにかく彼女に関する情報は少なすぎた。

そのため本当に彼女が宮廷を裏切ったかどうかを明言する者はあまりいない。

「将軍の跡継ぎが謀反人とは、もし本当なら笑わせますな」
と、ジャルジェ将軍の前であざ笑うかのように皮肉を言う者もいたが、その程度の事なら宮廷ではよくあるやり取りに過ぎない。

少なくともアントワネットが今もオスカルを信頼していることが人々の憶測に大きく影響していた。



ランベスク公爵はひどくオスカルの事で怒っていたが、パリで彼が必要以上に武力を行使し、民衆の復讐心に火を付けたといううわさも飛び交っていたので、オスカルは単に彼が付けた火種を消したかったのではないかとも言われていた。

バスティーユ襲撃においても、ジャルジェ准将はまず和解の道を探ろうとしていたと見られ、何か突発的な事故が起きただけで、決して彼女が民衆を扇動していたのではないという報告も上がってきている。

ド・ローネ侯爵の副官として牢獄にいたデュ・ピュジェは、交渉のため白旗をかかげたオスカルを目撃しており、その直後、牢獄側の兵士が彼女を撃ったことも証言した。

もしド・ローネ侯爵が追いつめられ、おびただしい火薬を爆発させていれば犠牲者は桁違いに跳ね上がったであろうし、衛兵隊のしたことは、争いの早期終結には仕方がない成り行きだったとデュ・ピュジェは振り返っている。



だが、バスティーユの跳ね橋を落とした責任については別である。

現に指揮官は殺され、牢獄も民衆に奪われた。

その場にいた士官として、これらを阻止できなかった事実は見過ごすことはできない。

オスカルは本人不在のまま地位を剥奪され、ずいぶん弱っているジャルジェ将軍はアントワネットの配慮で、休養の意味を込めて一ヶ月の謹慎処分となった。

これらの決定は王妃の声がかかったことにより、ずいぶん軽いもので済んでいた。


一方、大臣たちはアントワネットとは反対にオスカルに対して厳しい意見を持っていた。
地位の剥奪だけでは今後の示しにはならない、もっと厳罰に処するべきだと、王妃の生ぬるい考え方に異を唱えた。

とは言え生きているのであれば彼女を尋問し、状況を検分できるのだが、何よりもう本人は亡くなってしまったのだから、何を言ってもはじまらない。


皮肉な結果だが、オスカルが亡くなったことにより、ジャルジェ家の存続について断然有利に事は運んだのである。



又、今さらジャルジェ将軍を失脚させても誰の得にもならない。

彼は軽率な人付き合いはしない性格で、その一本気な様子が宮廷では珍しく、かえって好感度を上げていた。

王室への忠誠を貫き、このフランスに留まり王と王妃を守り抜くであろう彼をむざむざ陥れる必要などどこにもない。


結局、誰もオスカルの死を理由にし、この話に白黒をつけたがらなかったのだ。



どちらかと言えば、パリで三万人の兵士を指揮していたブザンヴァル将軍がシャン・ド・マルスから一歩も動かず、バスティーユ襲撃に際して何ら手を打たずにいたことの方が批判の対象となった。

その上、彼は暴れる群衆を目の当たりにして戦略を見いだせず、もたついているうちにランベスク公爵の騎馬隊を援護することもできなかった。

又、兵士の士気低下によって、統率どころか自分たちの身を守るだけに終始し、むざむざド・ローネ侯爵を見殺しにしたと非難され、さらに裏では同郷のネッケルと共謀し、民衆に有利に動いたのではないかとさえ疑われた。

しかし実際は、混乱を極めたバスティーユにもし彼らが軍勢を率いて乗り込んでいれば、余計に犠牲者を出していた可能性が高く、動けないでいたのもやむを得ない点が多い。

だが現状を知らない宮廷によって、ブザンヴァル将軍はバスティーユ事件直後、即座に拘束されてしまった。


やがて釈放された彼は失意のまま残りの人生を過ごすことになるのだ。





2006/10/16/




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