−古城にて− 王太子ルイ・ジョゼフは脊椎カリエスを患い、ムードン城にて闘病の日々を送っていた。 オスカルは今までも何度となく彼のお見舞いに、時折その古城に足を運んでいた。 だが情勢の悪化するフランスの、ことにパリ市中の治安維持のため、衛兵隊隊長の彼女は日夜警備に追われ、なかなかルイ・ジョゼフの元に参上できなかったのだ。 「オスカル、よく来てくれました」 アントワネットはオスカルを城の玄関まで迎えに来ていた。 「恐れ入ります、王妃様」 オスカルは少しやつれた王妃を痛々しい気持ちで見、あわてて馬から下りた。 今もアントワネットの顔を見るたびに思い起こす事は多い。 ・・・それは衛兵隊に編入するために願い出た時のこと。 当時はフェルゼンへの苦しい想いもさることながら、愛し合う二人のそばから離れようとしていたオスカルだった。 貴族に生まれ、武人として生きてきたはずではあったが、彼女の真の心はひずみ、解放を求めていた。 自分らしく生きたいと願う心を押さえつける限界に来ていたのだ。 何よりも、アントワネットを一途に想うフェルゼンを間近に見て、さながら自分のことのように二人の恋にのめり込んでしまったオスカルでもある。 確かに、フェルゼンは男らしい、自分の信じるものの為には命をかけることができる素晴らしい人だ。 彼がアントワネットに対し、静かに、だが人生の全てを捧げる彼の姿に、オスカルは心打たれたのだ。 今は過去として冷静に振り返り、そう言い切ることが出来る。 あれから時は過ぎていた。 そばて見ていたオスカルはまだいい。 が、しかし、当のフェルゼンとアントワネットは結ばれない定めなのだ。 貴族の女として政略に操られ、運命の人とも引き離されるアントワネットの悲しみが、今のオスカルには理解できた。 そのようなフェルゼンとの恋を心に隠していたアントワネットだったが、王妃としてのつとめとしてお世継ぎを産み、今、母としてやっと心が満たされようとしていた。 だが、今度は不幸にも我が子に病魔が襲いかかっていた。 彼女には心休まる暇がないのだ。 (アントワネット様・・・。あなたから離れて、はじめて私はあなたの苦しみがわかったような気がします・・・) この頃では、自由に、自分の思うままに、人を愛することがどんなにすばらしいことか、わかってきたような気がする。 オスカルは不意にアンドレの事を想う。 特に彼との仲がどうこうと言うわけではないのだが、ふとした瞬間に心が通うことが誰にはばかるものではないという事実。 全てが自由なのだ。 これからの長い時間の中で、二人がどのような関係を築いていくかはそれぞれの気持ちにゆだねられているということそのものが「幸せなこと」であるという実感。 ただ、彼女の場合は自分の気持ちに素直になれるかどうかが一番の課題ではあるが・・・。 「あなただけです、オスカル。本当のことが言えるのは・・・」 「アントワネット様・・・」 オスカルはそれとなく王妃の言葉の意味がわかった。 アントワネットには今や貴族の中にも敵が多い。彼女を中傷するうわさをしたり明らかな敵対心をむきだしにする貴族もいたのだ。 「さっ、早くジョゼフに会って下さいな、オスカル」 「はい」 オスカルはこれまでのようにアントワネットにはできるだけの誠意を示したいと思った。 かつて武人の務めとして忠誠を誓ったからだけではなく、彼女がオスカルに対して持ち続けてくれた友情に答えるためにも。 オスカルとアントワネット・・・二人は互いにそばにいて影響されあってきた。感情のままに生きること、自分を犠牲にすること。 二人は今まで、それぞれの立場で困難にぶつかり、時には敬い、時には反発し、つかず離れず同じ時の流れにいた。 しかし、歴史の流れは今、徐々にその二人を違う流れに引き離しつつあった。 ジョゼフはすっかり痩せて、時折苦しそうにしていた。 「オスカル!!オスカル・フランソワ!もっとそばに来て」 彼はお気に入りのオスカルを見て喜んだ。 「ジョゼフは熱が下がらないのです」 アントワネットはつらそうだ。 「王太子殿下、お久しぶりです。おかげんはいかがですか」 オスカルは幼い殿下にうやうやしく一礼した。 「オスカル、今日はとっても具合がいいんだ。ほら、お母様にお願いして勉強しているの」 ジョゼフは枕元に何冊かの本を置き、時折手に取って読んでいるという。 「それは、ご立派です」 オスカルはベッドのそばの椅子に腰を下ろした。 「ほう、兵法の本でございますね、殿下」 オスカルはその内の一冊を手に取った。 「うん、僕はもっと強くなって、フランスを守らなくちゃいけないもの」 「では殿下が良くなられたら私が銃の扱いをお教え致しましょう」 「オスカル・フランソワ。頼むよ、きっとだよ」 ジョゼフはこの美しい武人が大好きだった。すらりとした美しさと強さを兼ね備えた、見事な金髪の女将校。 幼いながらも、ジョゼフは彼女のことが本当に好きだった。 「もちろんでございますとも。このオスカル、約束は必ず守ります」 「・・・でも、約束を破るのはきっと僕の方だ。僕はもう、こんなものを持つのさえつらいんだもの・・・」 ジョゼフは持っていた本をぱたんと置いた。 病魔に侵された少年の白い細い腕は、そのような紙の束すら長い間持っていられないのだ。 ジョゼフはそう言って、すまなさそうに母の顔を見た。 そのとたん、アントワネットは涙をこらえ切れず、部屋から出て行った。 オスカルは言葉を失った。 (奇跡は起こるものでございます、王太子殿下。お気を落とさずに、病など退治なさって下さい) オスカルはそう言って励まそうとしたが、その言葉は頭の中で渦巻くだけで、ついに口からは出て来なかった。 ジョゼフは澄んだ瞳でオスカルを見ていた。何を言っても気休めにしかならない。その目を見れば、ウソは通用しないだろう。 この私ですらこんなに気持ちが乱れるのだ。まして、母親のアントワネット様はどんなにお苦しいだろう・・・。オスカルは無理に笑顔を作り、ジョゼフの手を取った。 「王太子殿下。今度参ります時は、きれいな細工を施した銃をお持ち致しましょう」 「嬉しいな、オスカル。次はいつ来てくれるの・・・僕、待ち遠しいな・・・。だって、今は時間が惜しいんだもの。もしかして、僕にはもうあんまし時間が残ってないのかも知れない」 ルイ・ジョゼフの賢そうな瞳が一瞬、曇った。 「・・・」 「・・・だから、オスカル。お願い・・・その時は、僕の代わりに、お母様をいつまでも守って・・・、お願い・・・」 ジョゼフはオスカルをまっすぐに見つめ、その手を握り締めた。 再びオスカルは絶句した。 衛兵隊に転属してから、少しずつ王室離れをしているオスカルだった。 こんな年端も行かない少年に、心の底まで見透かされているような気がして、彼女は心に強い痛みを感じた。 何よりオスカルの手を握り締める少年の手の力は、すでにか弱い。 しかしオスカルはその窮地をあっけなくも逃れることが出来た。 ジョゼフは疲れが出たのか、そのまま目を閉じて眠りについたからだ。 オスカルは庭で独りひそかに泣いているアントワネットの所へ近寄って行った。 「おお・・・オスカル。ジョゼフは・・・」 アントワネットはオスカルにすがりついて泣きはじめた。 「アントワネット様・・・」 オスカルは慰める言葉が出て来ない。 「浮気なオーストリア女、赤字婦人・・・それが私に向けられた評価なのです。貴族の中にも王室を見限り、敵に回るものすらいるのです」 「・・・」 オスカルはアントワネットの背負った重荷がいまさらながら彼女を非常に苦しめていることに愕然とした。 平凡な女であれば恋も自由にできたし、要らぬ権力争いに巻き込まれることもなかった。 アントワネットが自分の気持ちを殺してまで耐えて来たことは何一つ報われず、ただ彼女はいつも“外国人”として非難の的になっていた。 「・・・とてもつらいのです。・・・いいえ、私のことはどう言われてもいいのです。・・・だけど、あのジョゼフの父親が誰だかわからないなどという中傷を耳にしたときは、怒りと悲しみにこの身が引き裂かれるような思いを味わいました。その上、ジョゼフのことを・・・早くいなくなればいいという話まででているのですよ・・・」 「・・・」 「私はあの子たちのおかげで、はじめて自分に生きる価値があると知ったのです。人の命を・・・軽々しく・・・、私にはそのような人々がとうてい理性ある人だなどと・・・信じることが出来ません。まして必死で生きようとしている子供たちに向かって・・・私は・・ですから・・何があっても守らなくては・・・」 アントワネットは胸につかえていたことを、すこし吐きだしたお陰で、だんだん落ち着いて来た。 「アントワネット様、心ない中傷はお気になさいますな。あなたを信じて仕える者はまだたくさんおります」 「オスカル、私は今まで貴女のように、無欲な気持ちで仕えてくれた人たちの言葉をろくに聞きもしなかったのです。もう遅いかも知れませんね」 アントワネットの言葉は沈んでいた。 「アントワネット様、お気をしっかりお持ち下さい」 とは言うものの、オスカルには励ます言葉をかけるだけで、実際にはどうしようもないことだった。 そう、王室が作った赤字が膨れ上がっているのも事実であるし、アントワネットを嫌って敵に回った貴族が多いのも事実である。 だが、これ以上事態を悪くしないためにも、王室は時の流れに敏感になり、これからの対応を慎重に対処して行く義務がある。 「次代を担うジョゼフ殿下の為にも、このフランスをもっと良い国になるようお治め下さい、アントワネット様」 「・・・そうですね、オスカル」 アントワネットは自分が守るべき子供たちのことを思い、次第に力が沸いて来た。 「私があの子たちを守らなくては、誰が守ってくれるでしょう?貴族たちは自分の権力を蓄えようとしています。それに無知な民衆までが王室を批判していると言うではないですか・・・。王室が国民を支配するのは神から与えられた権利なのです。・・・そう、あの子たちの為にも、私は負けられません」 神の御加護のもとに栄えて来たと信じられていたハプスブルク家の血は、国民を支配するという考えの中で、脈々とアントワネットの体に流れていた。 彼女は子供たちのためには、たとえ男になってでも戦うことすら出来ると思った。 「・・・」 オスカルは黙った。 (負けられない、それは、誰に対してでしょう?貴女に敵対する貴族でしょうか。それとも民衆でございますか、アントワネット様。) (恐れ入りますが申し上げます。民衆とはそもそも国の力。その国の力を敵にしてどうなるものでしょう。王室が民衆を愛さなければ、彼らも王室を愛さないでしょう。) (貴女の母国オーストリアでは、偉大なるマリア・テレジア様が国家の慈母として君臨し、国民から広く愛されたのも、民への深い愛情なくしては語れますまい。) (だが、まだ間に合うだろうか。いまさら、このフランスの事態を愛で救えるのだろうか・・・) オスカルは心からわき上がってくる疑問が、アントワネットに対し批判的である自分自身に少なからず驚いていた。 今までもアントワネットは自分の悩みについてはオスカルに隠さず打ち明けて来た。 だが彼女の方からはオスカルに対し、何を悩んでいるのかと問いかけたことはない。 もしたとえ問われたとしても、フェルゼンに心を寄せているとはオスカルも言えなかったではあろうが・・・。 身分の違いから言えば当然であるが、やはりアントワネットの自分本位の考え方がそこに出ていたと言えよう。 しかし、たとえどのような欠点があっても、アントワネットには人を引き付ける人間味あふれる魅力があったからこそ、オスカルも今まで仕えてくることが出来た。 先ほどのジョゼフの言葉ではないが、彼女の無垢な心を守りたいと、オスカルは今でも思っている。 そう、これからも・・・出来る限り・・・ 「・・・だから、オスカル。お願い・・・その時は、僕の代わりに、お母様をいつまでも守って・・・、お願い・・・」 「・・・守ってあげて・・・お願い・・・」 1789年6月4日午前1時、王太子ルイ・ジョゼフは、その短い一生を終えた。 彼は最後まで病と戦い続け、その魂は天の使いに見守られて、空の高いところに帰って行った。 同年、7月14日オスカル・フランソワもバスティーユ攻撃に散る。 彼女が約束した、きれいな細工を施した銃はついにジョゼフに届けられる事はなかった。 人々の想いは、その真の願いをかなえられぬまま遠い風にさらわれて消えていくのである。 おわり 1996年8月 未完の物語より抜粋 加筆・変更 2005年1月6日 up/2005/1/6/ ■めずらしく あとがき その昔、書きかけて止まってしまった物語から抜粋して加工しました。 原作の場面が一部登場しています。 このジョゼフの一言はすんごく耳に痛いです。 なまじ大人に言われても、相手もそこそこ世の中を知っていたらある程度は仕方ないと理解できることが、純粋無垢な子供に言われてしまうと太刀打ちできません。 言われたオスカルの気持ちもきっとつらいだろうなぁ。 特に革命間際ではオスカル自身もアントワネットを裏切ることも、ある程度は予測できただろうし、やっぱし考えただけでいたたまれない。(T_T) 特に原作ではジョゼフがとても聡明に描かれていて、世の中を見通す能力があっただけに、短い一生が惜しまれます アニメではその後の革命の混乱を知らずに亡くなったことが「せめてもの救い」と語られていましたが、いずれにしてもその後の王室の末路は心の重くなる展開です。 というか、ジョゼフが実在の人物なのがショックですが・・・。 アントワネットとオスカルの別れの場面が見事な盛り上がりを見せたアニメの場面がありますが、このジョゼフの一言も是非聞いてみたかったなぁ・・・なんて思っています。 戻る |