−お知らせ−

このお話は史実に基づくものではなく、単なる妄想です。
一部に実在した人物・団体・物体・出来事・地名・思想・制度なども登場していますが、その行動や性格設定・実態・本質及び情景etcは、全て「でっちあげ」です。
又、内容も原作から大きく外れている場合も大いにあり、予測なしにオリジナルキャラクターも登場します。
まれに、現在は控えるべき表現も出てきますが、あくまで場面を描写するためにやむなく使用しています。
気になる誤字脱字誤用も当然、存在します。
それを承知の上、多少のことは目をつぶり、遊び心で読んでみようという方のみ、下へお進み下さい。




-分かれ道-



七月に入ってからアンドレにとって毎日が妙に早く過ぎていた。

つい昨日聞いた話によると、屋敷にいる祖母はジャルジェ将軍から「ばあや、アンドレは元気にしているか」とたずねられたのだと言う。

どのような心境の変化があったのか、将軍は少し態度を軟化させたらしい。

すでに今日は七月五日になっており、時間の感覚がおかしいのか、毎日色々なことが起きすぎるのか、あのジャルジェ家での騒動も、アベイ牢獄の事件さえも遠くに感じられた。


又、この日のオスカルは妙に素直だなとアンドレは思った。

兵士たちはようやく最近になって時間をやりくりし、少しずつ休みを取っていた。
オスカルは普段なら休むことさえ忘れがちなのだが、今日ばかりは夏風邪が治らないと苦笑し、夕方には屋敷に引き上げると言い出した。

アランは横目でアンドレの足を蹴り、一緒に帰ることを促した。



「久しぶりのような気がするな、アンドレ。お前とこうやってゆっくり馬を並べるのは」
屋敷への帰り道、オスカルは穏やかに言った。


「そうだな、以前はよく遠乗りにも行ったものだが、いつの頃からか行かなくなってしまった。第一ここのところそんな余裕がなかったしな」
そういうアンドレの脳裏には、いつか厩でオスカルのブラウスを無理矢理引き裂いた自分の姿が鮮明に浮かび上がった。

彼はその苦々しい記憶を思わす振り払う。


「六月には色々と有った。王太子殿下が亡くなられ、国民議会は力を得た。お前があの雨の中、近衛兵を阻止し、そしてアベイ牢獄のアランたちを助けたことは、今思い返してもぞくぞくするほどすごい事だったと思っているよ」


「私は人が言うほどすごい人間ではないし、むしろ臆病者だと思っている。特に私一人の力は非力だ」
オスカルは淡々と心中をアンドレに打ち明けた。

決して謙遜したわけではない。彼女は今までに自分の力ではどうしようもないことを幾度も思い知らされてきたし、アンドレに対しても未だにわだかまりを持ち、素直になれない自分をとりわけ高く評価する気にはなれなかった。

ただ、もしもこの先、自分が長く生きられないのだとすれば、残された時間を悔いなく使いたいと思えるようになってきていた。


「そんなことないさ、お前はすごい奴だよ、それは俺が一番よく知っている」

平民の身分に生まれたアンドレと違い、オスカルは貴族の嫡子として数々の特権を持ち、特に成人してからというもの、たいていのことは自分の意志で動くことが出来た。

身分制度に縛られた彼から見れば、オスカルはずいぶん自由に振る舞ってきたし、自分で自分の運命を切り開くことが出来る彼女を、かつてはうらやましいとさえ思った事もある。


だが、その自由さ故に、時には自らが進んで過酷な道を選んでしまうこともある。

彼女はその典型であり、見方によっては皮肉なことであった。

父であるジャルジェ将軍やブイエ将軍が彼女の行動を全く理解せず、保守的に振る舞うことは、一族や我が身を守ろうとする貴族としては当然のことだ。

むしろオスカルが自分自身の保身を顧みず、自由や平等を叫ぶ民衆を守り、議会政治という新しい考えを受け入れたことの方が珍しい。


身分制度の中で生きている彼らは、生まれ持った運命を一生背負い、決められた道しか歩むことは出来ない。よって、運命が一つ違うだけで、ある者は虐げられ、又ある者は優遇されることになるのだ。

神の前では誰もが平等であるという考えが広く浸透してきた今、虐げられてきた者たちはこれまで守ってきた秩序に対し、従来の制度を破壊してでも変わらなければならぬ何かを感じて、ようやく自分たちの意見を声に出して叫びはじめたのである。


まもなく人々はそのしがらみを打ち破るであろう。

アンドレの心の中でザワザワと落ち着かない感情が渦巻いているのは、彼が平民の身分であるからに違いない。


「お前はきっと生まれる時代を間違えたんだ。もし、この世の中がもっと自由で平等で、そしてしかるべき指導者が導いていたのだとしたら、お前は全く違うことをしていて、本来あるべき道を歩んでいたのかも知れないな」
アンドレはつぶやいた。


「私はこの時代に生まれ、そして女ばかりのジャルジェ家の末娘として生まれたことを幸せに感じている。…そうでなければお前とも出会えなかったじゃないか」
オスカルは彼をまっすぐに見た。その様子はとても冗談で言っているとは思えなかった。


「オスカル、お前に見つめられると俺はつらい。お前はいつも光り輝いているし、あまりにも美しい」


もし彼女が女として育っていれば、身分の違うアンドレとの出会いは決してなかったであろう。

だが男として育ったオスカルのこれまでの道程が、決して平坦なものではなかっただけに、彼女が心の中で彼と同じ想いを抱いてくれていたことは、アンドレにとってこの上なく嬉しかった。


「私はうわべだけを見られるのは嫌だ。人は必ず老いるものだし、やがては土に帰る。時と共にうつろうものは永遠ではないし、人の賞賛などやがては忘れ去られる」
オスカルはこれまで、見目麗しいと言われるたびに、自分の孤独をよりはっきりと感じてきたのだ。


「時は移ろいゆくから愛おしい。美しさはそれを見る者を幸せにするのだから、お前は人からの賞賛を受けて自信を持てばいい。それに見た目だけではなく、お前は誇るべきものをたくさん持っている」


「…だから、私を我が物にしようとしたのか」
オスカルは決して怒っているふうではなく、真剣なまなざしで問いかけた。


「俺はお前がいてくれたからこそ多くを学ぶことが出来た。確かに子供の頃は一緒にいて楽しいと思っていたし、反対にお前を傷つけたこともある。だけど最近では日一日、お前と出会えたことを神様に感謝する気持ちが強くなってきている」


アンドレがあまりに冷静に答えたせいか、オスカルはそれ以上何も言わなかった。

だがこの時、彼女はどこか物足りない気持ちをくすぶらせていたのである。


本人は気が付いていないが彼女の本心は、もう一度彼を激情の嵐に放り込み、荒々しく「愛している」と何度も叫んで欲しかったのである。

激しく愛されていることで、今ここに自分が生きている証しが欲しい。

そんな切な女心をたいていの男が気付かないように、アンドレも又、オスカルの沈黙を理解することは出来なかった。


ただ、オスカルの思惑が大きく外れたのは、心地よい夕暮れの景色が二人の気持ちを必要以上に高揚させなかったからなのだが、何より、恋を語るには時と場所を選ぶことを彼女自身がいまひとつ理解していなかったのである。




**********




七月八日、平民議員のミラボー伯爵は議会においてパリに駐屯する国王軍の撤退を議決させた。

駐屯地のシャン・ド・マルスには軍隊の物々しい野営用のテントが並び、多くの大砲が運び込まれていた。
これを見てパリ市民は次第に未来を絶望しはじめている。

それほどまでに軍隊は市民や議会を威圧し、暗い影を落としていたのだ。

しかし議会の決議に対し、国王はかなりいい加減な返事を返した。


軍隊はあくまで治安維持のために集結しただけであり、もしそれが不服なら議会をパリから九十キロほど離れたソワッソンかノワイヨンに移すと言い放ち、強硬な態度に出た。

又、これらソワッソンとノワイヨンは軍の集結地でもあった。

もし議会が一歩下がって国王の言いなりになったとしても、軍隊に囲まれての存続になる。
宮廷の考えは明らかだった。



「パリの市民が望んだ通り、衛兵隊の兵士たちも釈放しました。それに国民議会にも今までずいぶん譲歩してきたはずです。これ以上、何を私に譲歩しろと言うのでしょう。国王陛下や私に対して、誰がどうして命令する権利があると言うのでしょう」
アントワネットは議会による一連の反発に怒りを感じていた。

もうこれ以上の我慢は出来ない。


議会も民衆も、そして貴族たちも、これほど世の秩序を乱して何を得ようとしているのだろうか、アントワネットには全く理解できなかった。

むしろ王妃である彼女は絶対的支配こそが王権であると信じていたため、元より彼らの心情をわかろうとする気すらなかった。

とにかく早く以前のように戻りたい、そして次から次へとのしかかってくる重圧から早く解放されたかったのだ。


このまま国民議会が意気消沈して勢いを失えば、パリ市民もおとなしくなるだろう。

そしていまだ優柔不断な夫をふるいたたせ、反目する貴族たちを従わせるのだ。

全ては逃げるためではない、神聖な権利を守るためだ。

アントワネットは相変わらず変わりゆく世界の流れに気付こうとはせず、全てがこれまでの通りに戻るに違いないと信じていたのである。




**********




宮廷と民衆の対立は深まるばかりになっていた。

しかも今、どちらにもそうせざるを得ない理由を持ち、実は両者共すでに後へは引けぬ状態になっている。


オスカルに出来ることはあまりに少ない。

凶暴なまでにパリ中を駆け回り、これまでの恨みを晴らそうと関税所や食糧倉庫を襲う市民を説得し阻止すること。
そして三万人の兵士が、いかにパリを危険な状態にしているかをアントワネットに伝えること。

だが、何が無駄な行為かということは、オスカル自身がよくわかっていたことなのかも知れない。

結局、アントワネットは世の変化を理解せず、暴徒と化した民衆が説得などを聞くはずもない。


衛兵隊は日々、暴動が起きそうな場所に陣取り、事件を未然に防ごうと手を焼いていた。

ついこの間、アントワネットに対し、民衆との歩み寄りを提案した彼女だが、もはや事態はそのような余裕すらないことを再確認するばかりだった。

ただ、救われるべき事は、これほどまでに疑心暗鬼に陥った民衆であるが、居座る軍隊と不満に対する怒りはあるものの、国王に対する復讐心はさほど感じられない。

オスカルはまだ希望を捨てることは出来なかった。



しかしパリの市民たちは六月の末からというもの三万人の兵に囲まれ、自分たちがまるで人質であるかのように扱われたことに怒りをたぎらせていた。

正規の軍隊に対し、武器も戦法も知らない民衆は太刀打ちするすべもない。

だが人々はそこで折れるのではなく、次第に自分たちがもっと強くなる方法を探し始めていたのである。

追いつめられた小動物が捨て身の反撃を仕掛けてくるように、人々の動きは絶望の中から新たな希望を探し出すかのような興奮状態を作り出していた。



そして七月九日、軍隊の威圧に負けぬよう、国民議会はさらに自らの権利を主張し、憲法制定国民議会と名を変え、新しい憲法の制定を作る作業に入った。

しかし彼らを警護すべき軍隊は全て国王の命令で排除されていたのである。

オスカル率いる衛兵隊は議場警護の任務を解かれ、ただひたすらパリの町中を巡回するという目的のない任務に就いている。

今では国民議会はすっかり丸腰になってしまい、パリに陣取る国王の軍隊は市民を監視するかのように居座っていた。

議会は彼らの力を押さえ込もうとする国王の威圧によって、少しずつ勢いを無くしつつあったのだ。



ところが七月十一日になって、パリに集結した軍隊の一部の規律が乱れはじめた。

軍隊の駐屯によるパリの食料不足は目に余るものがあり、市民の目つきは怒りと飢えのためにつり上がり、一触即発の様相を呈してきた。

外国人部隊は大半が傭兵、つまり雇われ兵だったのだが、彼らの間にも市民の異様な興奮がうつったかのようにいらだちが目立ちはじめた。

そもそもいきなり三万人もの人口が増えると、それだけでも町は落ち着きを無くす。
士気は著しく低下し、喧嘩を始める者や中にはパリ市民を威圧することに違和感を感じる者も出てきている。


それを受けて国王は計画よりも早くネッケルを罷免し、強硬な保守派で有名なブルトゥイユ男爵を彼の代わりに財務総監として任命した。

儀典長のブレゼ候によれば、国民議会は次第に声の調子が落ち、机上の空論を繰り返しているだけだと聞く。

議会に味方するネッケルを排除すれば、もうあとは力を無くした議会は自然に解散するだろう。


これで終わりになるはずだと、国王とアントワネットは考えていた。

もうすぐ議会は無くなり、三部会が開かれる前の状態に戻るであろうと胸をなで下ろしていたのだ。
そうすれば以前のように舞踏会を開き、親しい友人たちを招いたお茶会を催すことが出来るとアントワネットは思わず微笑した。




**********




七月十二日になって、ネッケル罷免のニュースはたちまちパリに流れ、パレ・ロワイアルでは集まった群衆に不安が走った。

民衆が支持するネッケルの罷免は彼らへの当てつけであり、やがて虐殺が始まるに違いないと人々は思いこんだ。

又、社会全体にも動揺が走り、銀行が破産するなどのデマが飛んだ。

アントワネットたちが楽観したのもつかの間、すぐに反動が起きていたのだ。


パレ・ロワイアルではすでに国王軍に対する決起集会が始まっていた。

ベルナールの友人でもある弁護士のカミーユは、人々に向かって興奮気味に「武器を取れ」と演説し、ついに民衆は奮い立ってデモ隊を結成したのである。

彼らはパレ・ロワイアルを出発し、治安維持のために警戒していた軍隊と数カ所で衝突した。


この時、パリに集結した軍隊を指揮していた将軍ブザンヴァル男爵はこれらの一連の動きを受けて、市内に配置していた部隊を全て駐屯地のシャン・ド・マルスに集めさせた。

国王の軍隊とはいえ今では民衆に同情的な者も含まれていたので、デモ隊の鎮圧は不可能と判断したのだ。

将軍にすれば、今は兵士たちの統率を保つだけで精一杯の状態で、とてもパリの治安を維持できる状態ではない。
乱れがちな規律を守らせるだけでも大変な折りに、もし暴動に巻き込まれでもすれば収拾がつかない。

結局、三万人の兵士を指揮しながら、ブザンヴァル将軍は殺気立つ市民の鎮圧に自信が持てず、ただひたすら守りの姿勢を貫くしかなかったのだ。



だがそのため、かえってパリ市内は無法地帯と化した。

又この日、反動家のランベスク公爵がドイツ人近衛隊を指揮し、チュイルリー宮の庭園に集まった群衆を襲撃したことで一気に緊張は高まった。

ランベスク公は、態度を留保しているブザンヴァル将軍とは違い、積極的に行動し、鋭い眼光で隊を統率し、全くためらいもなく群衆を蹴散らしていった。


当然この出来事を受けて人々は必要に迫られて自ら立ち上がり、ついに本格的に武装を開始しはじめたのである。

あちらこちらで警鐘が鳴り響き、武器商は略奪され、人々は寺院に集まり武装を開始しはじめた。


ついに戦いの序章が始まろうとしていた。




**********




オスカルはこの日が最後と心に決め、アントワネットに謁見を申し込んだ。

パリに駐屯する三万人の兵士たちは動きが取れず、反対に市民たちが武装を開始していることはオスカルに伝わっていた。

治安維持のため、彼女の隊に出動命令が下されるのは時間の問題になっていた。
そうなればオスカルはパリに行き、市民を鎮圧するかどうかを決断しなければならないのだ。もう時間は残されていなかった。


だが今朝から体調は最悪で、時折めまいがする。

アンドレに供を頼もうかとさえ思ったが、やはり彼に心配を掛けることは出来なかった。




「まあ、オスカル。急ぎとの事でしたが何のご用でしょう」

この日のアントワネットは機嫌が良かった。お気に入りの椅子に腰掛け、扇子をもてあそんでいる。
パリでの事態の変化は耳にしていたが、まだ王室に不利な状況とは考えていない。


「このオスカル、王后陛下にこれ限りの願いがあって参りました」


「それほど大切な願いなのですか」


「はい」


「明日にもあなたの隊にパリへの出動命令が下りる事になるでしょう。ですがオスカル、あなたは行かなくて良いのですよ。ブイエ将軍には私から言っておきましょう」

アントワネットは将軍への伝言を伝えるため侍女を呼ぼうとした。

その時、オスカルは剣を置きアントワネットの前で大きくひざまずいた。


「…どうか、パリに駐屯する軍隊を王后陛下のご命令で引き揚げて下さいませ。さもなくばパリは火の海になってしまいます」


「できません、オスカル。それはとても出来ないことです」
アントワネットはため息をつき、大きく頭を振った。


「陛下、軍隊によって市民たちの憎悪は日増しに強くなってきています。ですが、彼らはこのような状況になってもまだ陛下を愛しているに違いありません。ならば王室が国の民に銃を向けることなど…有ってはなりません」


「こうなったのも彼らに原因があるのです。聞けばパリでは選挙人たちが自衛のために市民軍を創設したと言うではないですか。彼らこそ王権にたてついたのがそもそもの始まりです。王であればこそなおさら今、権威を示さなければならない時です」
アントワネットは自信に満ちていた。

少し不安要素もあるが、いざとなれば三万人の軍隊は民衆が立ち上がることを阻止するはずだし、今もランベスク公が奮闘している。

明日には衛兵隊や他の部隊もパリに出動することになるし、市民はすぐにおとなしくなるだろう。

そして上手く行けば明日にも議会は解散するかも知れないのだ。
彼女はオスカルが何を言おうと、自分の決定を覆す気は全くなかった。


「明日になれば混乱が収まるとは限りませぬ。もはやパリの状況は深刻でございます。一刻も早くどちらかが一歩譲って争いを避けなければなりません。王后陛下、もう今日が最後の機会かも知れないのです。是非、勇気ある撤退を…何卒お願い申し上げます」
オスカルは食い下がった。


「これは…私が私であるために決めたことです。決して兵を引くことは致しません。私が正しいかどうかは、神様がご判断なさることなのですから」
アントワネットはきっぱりと言い切った。


「では、私はこれ以上申し上げることはございません」
オスカルは絞り出すように答え、黙り込んだ。


「あなたは私の大切なお友達、そうですね、オスカル」


アントワネットの問いかけにも尚、オスカルはしばし口をきくことが出来なかった。


オスカルがよほどの覚悟をしていることは顔色を見れば明らかだった。
これほどまでに彼女が自分の意志をぶつけてくることはかつてなかったのだから。


「…前にも言いましたね、あなたは私の自由の翼なのだと…」


切なく響くアントワネットの言葉にオスカルは顔を上げた。
彼女は切なそうなまなざしでオスカルを見つめていた。
その目には涙が浮かんでいる。



今、様々な想いがよみがえり、オスカルの胸を締め付けていた。

君主と仰いたこの方をお守りするのは自分しかいないと、希望に燃えていたあの若き日を忘れたことは決してなかった。

それだけではない、いつもどの時もアントワネットを愛して止まない思い出ばかりが、まぶたに浮かんでは消える。
苦い思い出すら、今は自分の通過点に過ぎなかったのだとさえ思える。

だが二人の行く道ははっきりと分かれてしまっていたのである。


「いえ、アントワネット様こそが…陛下こそが、今まで私に翼を与えて下さっていたのです」

万感の思いを胸に、オスカルも又、涙がうるむ瞳で彼女を見つめ返した。
押さえていた涙が思わずあふれてくる。



もうこれ限りになるかも知れない。アントワネットは直感した。

明日には全てが上手く行くに違いないのに、なぜかもうオスカルには会えないような気がする。
今こそ別れの時だと悟ったアントワネットの両目からもついに大粒の涙が頬を伝い落ちた。


「それでは失礼致します」
オスカルはようやく立ち上がった。


「ごきげんよう、オスカル」
努めて明るく言ったはずだが、アントワネットの声は震えていた。


「アントワネット様も…いつまでもお健やかに」
彼女も喉を詰まらせて答え、王妃に一礼してから背中を向けた。

もう後ろは振り返らなかった。




**********




今や混乱を極めたパリに秩序はない。暴徒と呼ばれているのはパリの一般市民であり、国王軍の威圧によって追いつめられた人々なのである。

その中にはオスカル率いる衛兵隊の兵士の家族や友人もおり、彼らは虐げられた反動で今日にも蜂起しようと拳を握りしめているはずだ。


衛兵隊ではパリの巡回警備も無駄となった昨日から、兵士らは兵舎で待機している状態にある。

今すぐにでも彼らに下される出動命令が何を意味しているか、もはやわからぬ者はいない。
しかし兵士たちは事の重大さとは裏腹に落ち着き払っていた。

その時になって自分が何をなすべきか、すでに心を決めていたのである。


夜になって、パリでは民衆の憎悪の的になっていた入市税関所は焼かれ、いたるところで強奪が起きた。火が放たれ、夜空に高々と幾筋もの煙が上っていく。


それはまるで戦いの始まりの合図のようであった。




2006/10/16/


後記:この時期、太陽が沈むのは午後8時半ぐらいです。
そうするとオスカルとアンドレがもし夕焼けの中を屋敷へ帰っているとすれば、その時刻は日本人の感覚よりかなり遅いことになってしまいます。
なので夕方とはいえまだ暮れなずんでいない感じ?とイメージして下さいね。




up2007/1/10/up


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